2017年に100周年を迎えます
成城学園は2017年に100周年を迎えます

卒業生100人メッセージ卒業生100人メッセージ

1917年に成城学園が誕生して以来、多くの子どもたちがその天分を伸ばし、大きく成長して社会へと旅立っていきました。
成城学園で培った「独立独行」の精神のもと、自らの道を切り拓き、輝き続ける成城っ子たちから寄せられたメッセージを順次紹介していきます。

五十音順一覧

    林 希

    荻野 いづみ Izumi Ogino

    成城学園中学校、高等学校 (1973年卒)ANTEPRIMA(アンテプリマ)クリエイティブ・ディレクター

    成城には楽しかった思い出しかありません。中学受験で成城に入ったので、入学当初は勉強ができたほうだと思いますが、すぐに遊ぶほうが楽しくなってしまって。一瞬にして染まってしまった(笑)。
    お転婆で自由奔放な女の子だったので、成城の自由な、押し付けない校風は合っていたのだと思います。やっぱり同じような自由奔放な友達にも巡りあうことができましたし(笑)。 私服だったこともあって、特に同級生の黒澤和子さん(映画衣装デザイナー)にはとても感化されました。身に付けているもののセンスが良く一流の品が多かったんです。 当時、同じグループでよく一緒に遊んでいたのが1年後輩の永島譲二さん。29歳で某イタリアブランドの極東のオペレーションを依頼されたときは、ドイツでBMWのデザイナーとして活躍している彼に相談してみたら、いつもの調子で「いいんじゃないの。やってみたら」という答えがかえってきました。
    デザインの基本は、ライフスタイルにあると思っています。いいものを食べる、いい音楽を聴く――、自分で経験したことでないと自分の引き出しになりません。経験が想像力を生み出すのです。
    成城にいた間は、情緒豊かに育ててもらった。本当に「個性尊重」の学校です。成城でなかったら、自分はこうはなってなかったなと思います。私はいわゆる「脱線グループ」でしたが(笑)、友人も黒澤さんや永島さんのようにモノづくりの分野で活躍している人が多いのは興味深いですね。
    今はアンテプリマを世界ブランドにするために、いろいろなプロジェクトに取り組んでいます。物事は始めたら、やめられないもの。自分の責任の中で、愛を注ぎながらしっかりとやっていきたいと思います。

    今回取材場所となったのはブランドとして初となるレストランANTEPRIMA CASA CUCINA(アンテプリマ カーサ・クチーナ)。荻野いづみさんの豊かなバックグラウンドから生まれた本物の品々で構成されている。今回取材場所となったのはブランドとして初となるレストランANTEPRIMA CASA CUCINA(アンテプリマ カーサ・クチーナ)。荻野いづみさんの豊かなバックグラウンドから生まれた本物の品々で構成されている。
    林 希

    林 希 Nozomu Hayashi

    成城学園中学校、高等学校 成城大学経済学部 (1995年卒)博報堂DYメディアパートナーズ
    メディア・コンテンツビジネスセンター
    メディア・コンテンツクリエイティブ2部 部長

    TVCM、Web、PRなど統合的なコミュニケーション設計をする仕事をしています。ビール、たばこ、PC、航空業界や、アーティストのMVなど、ジャンルは幅広いですね。
    広告をつくるうえで重要視しているのは、当たり前ですが「商品が売れるかどうか」。クリエイティブと聞くと色々こだわりがあると思われがちですが、僕は何もない(笑)。
    これは一例ですが、画期的な機能性飲料の広告では、それをまっすぐに伝えるべきと考えて、あえて表現で余計なことはせず、ニュースリリースの様な広告で訴求することを提案したこともあります。一見、地味な表現かもしれませんが、結果として売上がとても伸びました。クライアントから「コミュニケーションが効いた」って言われた時にやりがいを感じるし、それがすべての指針ですね。
    自分は物事を俯瞰して捉えるのが得意なタイプだと思います。学生の時も「成城」という学校にいる自分たちは、どういう風に世間から見られているのか?と、ぼんやり考えていました。環八の少し外という立地は、東京を俯瞰で見るには絶妙な距離感ですよね。同様の付属校と比べた自分たちの強みも、大学の頃には完全に理解していました。今でいう「ブランディング」ですね(笑)。成城には独特の感性が磨かれる環境があって、それは社会に出てからも、すごい武器になると思います。自由だから、自分で考えないといけない。ネットのない時代に世田谷から都心を見てきた様な一歩引いた感覚で、物事の本質を見極める大切さを学んだ気がします。学生生活はラグビー部中心だったのですが、他の先輩・後輩たちとも男女問わず色々と遊んでもらっていました。就職して間もない頃は、「そこらへんの社会人よりもスマートさや遊びを知っているのは成城の仲間だな」と感じていたくらい、それぞれの個性が光っている素敵な学校だと思います。
    今、やってみたい事は、大学で講義することです。コミュニケーションや企画などを切り口に、物の見方などについて。それが少しでも恩返しになればうれしいですね。

    MONDO GROSSO「ラビリンス」MV。満島ひかりさん出演のムービーは、iTunes MVチャートの1位を獲得。MONDO GROSSO「ラビリンス」MV。満島ひかりさん出演のムービーは、iTunes MVチャートの1位を獲得。
    乃木坂46出演で大きな反響を呼んだ、マウスコンピューターのTVCM。</span>乃木坂46出演で大きな反響を呼んだ、マウスコンピューターのTVCM。乃木坂46出演で大きな反響を呼んだ、マウスコンピューターのTVCM。
    もとしたいづみ

    もとした いづみ Idumi Motoshita

    成城短期大学(1982年卒)絵本・児童文学作家

     成城に通った2年間に、将来私がモノカキになる兆候のようなものはあっただろうか?
     長い文章を書いたのは卒論ぐらいだったし、人に褒められたのは、成城大学合唱団の合宿で、くだらない隠し芸を提案し、大ウケして表彰されたことしかない。
     名古屋で高校を卒業し、一浪した挙句、大学受験に失敗した冬。愕然としていた私にある日、父がメモを差し出した。まもなく3月だというのに、これから願書を出して間に合う大学があるというのだ。 「なり...しろ?大学?」予備知識ゼロのまま、入試の日に降り立った成城学園前は、町全体がのどかであたたかく(実際もう春だった)全てを受け止めてくれるような気がした。成城学園は、しっかりした理念がありながらも、解放的で懐が深い。
     短大では土曜日に各界著名人を招いての講座があり、市川房枝の講演を聞いた。などと書くと、どんだけ昔だ? と思うが、大変貴重な経験だった。そういうことは大人になってから気づくものだ。
     教育実習では、中学で成城ならではの独特な授業を垣間見ることができた。担当のやんちゃな新任教師が、現在中高の校長と知ったときは、爆笑しながら月日の流れを感じた。
     短大を卒業し、他大学に編入した私だが、学生時代は同期や後輩に会いに行き、社会人になってからも成城合唱団の練習や大学合唱団の演奏会で、懐かしい成城に行っては、アットホームな雰囲気にほっとしている。
     去年は大学で講演をした。同窓生や近隣の親子など客層はさまざまだったが、現役大学生も数名来てくれた。その一人いわく「家でバルサンを焚くからと追い出され、学校に来てみたら、ちょうど講演会をやっていたのでとりあえず入った」。
     このゆるい感じ!
     成城生、変わってない。いいなあとしばしニヤニヤした。

    日本絵本賞、講談社出版文化賞絵本賞を受賞した『ふってきました』をはじめ、絵本、童話、エッセイ集、翻訳など、現在200以上の著作がある。日本絵本賞、講談社出版文化賞絵本賞を受賞した『ふってきました』をはじめ、絵本、童話、エッセイ集、翻訳など、現在200以上の著作がある。
    絵本や童話に出て来るおやつと、それにまつわるエピソードを綴った37篇のエッセイ集『レモンパイはメレンゲのかなたへ』(集英社)。絵本や童話に出て来るおやつと、それにまつわるエピソードを綴った37篇のエッセイ集『レモンパイはメレンゲのかなたへ』(集英社)。
    竹越 修

    竹越 修 Osamu Takekoshi

    成城学園初等学校、中学校、高等学校 成城大学法学部(1992年卒)伝説の風味焼き ぶたや オーナー

    「NEVAの風味焼き」と聞いたら、ある年齢以上の人は、ピンとくるんじゃないでしょうか。成城の学生(特に体育会系)に人気のあった定食屋さんです。僕は中学から大学までずっと野球部でした。はじめてNEVAに行ったのは、今だから言えますが、中学の時です(笑)。「ぶたや」はそこの看板メニュー「風味焼き」という豚肉のピリ辛焼きを受け継いでいます。だから「伝説の風味焼き ぶたや」なんです。
    小さい頃から料理好きで、文化祭でラーメンを作ったりしていました。大学を卒業して企業に勤めたものの、いつかは自分の店を開きたいと考えていたんです。好きが高じて、ラーメン屋もいいかなと思ったことがありましたが、ラーメン屋はたくさんある。もっと個性を出したいと考え、そこで思いだしたのが、懐かしの「風味焼き」でした。
    NEVAは私が大学2年の時に閉店してしまったのですが、その味を真似て家でも時折、作っていました。あの「風味焼き」でお店をだしたらどうだろうか? それからは、NEVAのおかみさんを探しだして、お店を出すことを了承してもらい、レシピを教えてもらい、一方で友人に協力してもらいながら開店準備を...とあわただしかったですね。
    女性にも入りやすいように白を基調にしたインテリアにしたり、豚肉やご飯の量をいろいろ選べるようにしたり、自分ならではの工夫をしています。シンプルなメニューだけに、肉の選び方、キャベツの切りかたなど細かい部分にも常に気をつけています。カウンター8席の小さい店ですが、常連の方にも初めて来た方にも同じように接客するのも、私のスタイルですね。
    たまに成城の卒業生の方が来てくださいます。ここで偶然会う人たちもいて、懐かしそうに話しているのを見ると、こちらもうれしくなりますね。

    表面をカリカリに焼いた豚肉は何とも言えぬ香ばしさ!ご飯とキャベツがぐいぐい進む。表面をカリカリに焼いた豚肉は何とも言えぬ香ばしさ!ご飯とキャベツがぐいぐい進む。
    蘭乃 はな

    蘭乃 はな Hana Ranno

    成城学園中学校(2004年卒)女優、元宝塚歌劇団花組トップ娘役

     中学の3年間、ずっと同じクラスっていいですよね。私がいた楠組は行事に弱くて、スポーツも合唱も入賞する事がまずない。学年の中でも地味な存在でした(笑)。唯一好成績を残したのは、中学3年生の文化祭で"金春屋(こんぱるや)"という沖縄をイメージした模擬店を出し、そこでかなりの黒字を出したこと。今思えばユーモアやアイディアには長けたクラスでした。多感な時期に3年間もの月日を同じメンバーで過ごし、ぶつかり合うこともありましたが、お互いの事を知り尽くした上で認め合える関係を持てました。今でも「楠組」のグループラインでやりとりが続いています。
     部活は、幼い頃から習っていたバレエの役に立てば...という軽い気持ちで選んだ演劇部でした。上下関係もなく和気藹々としていましたが、発声などの基礎練習だけでなく、筋トレやマラソンで身体作りもするハードな活動でした。ダメ出しもシビアで厳しいものでしたが、演劇に没頭する時間が楽しかったです。コーチや部員とアイディアを出し合って一つの公演を作るワクワクも、舞台上で役に生きる快感も教えてくれた演劇部は、私の原点です。
     宝塚は上下関係が厳しくて、成城とはまさに真逆。その中でもコミュニケーションにおいてあまり苦労しなかったのは、人懐っこさ溢れる成城っ子気質のおかげかもしれませんね。恋い焦がれた宝塚の世界で、日々もがきながらもトップ娘役として舞台に立ち、憧れだった「ベルサイユのばら」や「エリザベート」に出演でき本当に幸せでした。
     2014年に退団し、今は毎回新しい環境で色々な人たちと舞台を創り上げていく、そんな新鮮な毎日を楽しんでいます。仕事としての責任感はもちろんありますが、根底にある"演じる事が楽しい"、"演じる事が好き"という純粋な気持ちは、今までもそしてこれからも中学生の時と何一つ変わらないだろうな、と思っています。

    宝塚退団後の2015年および2016年には、東宝版『エリザベート』でタイトルロールを演じた。宝塚退団後の2015年および2016年には、 東宝版『エリザベート』でタイトルロールを演じた。
    (ミュージカル『エリザベート』 写真提供:東宝演劇部)
    森 直義

    森 直義 Naoyoshi Mori

    成城大学文芸学部、大学院文学研究科 (1985年修了)修復家、森絵画保存修復工房代表

     小さいころから絵が得意な子どもでした。家にあった世界美術大全集を眺めるのが好きだったし、美術に親しみを感じていたのだと思います。
     成城大学で教鞭をとっておられた宮川淳さんの『鏡・空間・イマージュ』を読んで、よく分からないながらもかっこいいと思い、成城大学に入学しました。残念なことに宮川さんは早くに亡くなってしまい、実際に教わることは叶わなかったのですが。 大学、大学院と進んだものの、「美術史を研究する」ということは自分に向いてないように感じていました。かといって就職もする気にもなれずにいたのです。大学院生の時、先輩の付き添いで、修復家の方の家の留守を預かることになり、それが「修復」との出会いでした。
     本格的に修復について学ぶために、ベルギーのブリュッセルに留学をしました。フランスなども考えたのですが、ブリュッセルは多様な国の人が生活していて、インターナショナルな雰囲気で居心地がよかったんです。それに、世界初の油絵といわれ、15世紀の初期フランドル絵画の最高傑作と称される「ゲントの祭壇画」が大好きだったのも大きな理由です。
     渡欧して1年間ほどは語学と入試のための勉強をして、それから受験をしました。狭き門ではありますが、無事に合格することができました。自分としては一番勉強した時期かもしれません。あわせて8年半ほどブリュッセルで過ごしました。
     修復はとても奥が深く、学校ですべてを学べるわけではありません。ですが絵画を観察し、作者や時代背景、描かれた手法などさまざまな面から調査を重ね、修復の可能性を辿っていく、その道筋をどう探すかは学ぶことができました。修復の方法は一つではありませんから、たくさんの作品に触れ、経験を積んでいくことがとても大切だと思います。
     ゼミでお世話になった千足伸行先生からは「仕事は断らない」というありがたいアドバイスをいただきました。だからというわけではありませんが(笑)、私の工房は西洋絵画が中心ですけれど、6月に開催されるジャコメッティ展のコンサヴェーションを担当するなど、幅広く手掛けています。
     修復家として、とてもわくわくするのは、作品と対峙する時間ですね。額を外し、裏面までもじっくりと、それこそ普通の人は観られないようなところまで観ることができる。貴重な作品を後世に受け継いでいくために、試行錯誤しながら、自分の眼と経験のすべてを、作品に注いでいます。

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    森さんがコンサヴァターを担当した「大エルミタージュ美術館展 オールドマスター 西洋絵画の巨匠たち」(森アーツセンターギャラリー:六本木ヒルズ森タワー52階)。
現在開催中~6月18日(日)まで ※最終日まで無休
森さんがコンサヴァターを担当した「大エルミタージュ美術館展 オールドマスター 西洋絵画の巨匠たち」(森アーツセンターギャラリー:六本木ヒルズ森タワー52階)。 現在開催中~6月18日(日)まで ※最終日まで無休
    木村 高子

    木村 高子 Takako Kimura

    アルザス成城学園高等部(1988年卒)翻訳家

     私がアルザス成城学園高等部に入学したのは、開校した1986年のことです。父とその兄姉3人が成城の卒業生という、実は成城ファミリーですが、私自身はそれまで、インド、南アフリカ、イラクなど世界各地(の主に非欧米諸国)で暮らしてきました。父の新しい任地である東ドイツにほど近い場所に開校したこの日本の学校に、弟とともに入学しました。フランスの田舎、ブドウ畑の真ん中の元修道院に設置された全寮制の学校での生活は、誰にとってもカルチャーショックを伴うものでしたが、成城の東京校をはじめ日本やヨーロッパ各地から集まってきた生徒たちは、先生方とともに学校づくりに参加し、みんなで話し合って寮則を決めたり、神輿を担いで村祭りに参加したり、週末には日に数本しかないバスに乗って町の中華レストランに行ったり(当時、まだ和食レストランはありませんでした)、なんとか生活を築き上げました。個性豊かな生徒が集まりましたが、誰もが居場所を見つけられたのが成城の懐の深さでしょう。本好きの私には、開校時から充実した図書室があったことがとても嬉しく、いつも入り浸っていました。修学旅行には北イタリアやギリシアへ行き、豊かな歴史に触れることができたのは、その後の進路に大きな影響を与えたと思います。三年生の一年間、ホームステイでお世話になった近くの村のご家庭とは今も交流があります。
     高校卒業後、ストラスブール大学に推薦入学で入り、歴史を勉強しました。その後スロヴェニア人の夫と結婚して、現在同国の首都リュブリャナに住んでいます。英仏語の翻訳を行い、時々日本語を教えていますが、翻訳はノンフィクションを中心に手がけているため、海外経験や歴史の知識に助けられることもしばしばです。生活の重要な一部となっているのが当地の国際婦人会で、各国の友人と仲良くなったほか、これまでに日本をテーマとしたパーティーを企画したり、茶道教室の立ち上げを手伝ったり、また何年もの間チャリティバザーの日本ブースの責任者を務めました。読書会では日本の作家の小説を紹介しています。こうしてみると、各国の歴史文化への関心を育んだ海外生活、フランス語や歴史の勉強など、たとえ寄り道に見えても、人生に無駄は何もないのだと、いつも感じます。毎年夏の帰国時の大きな楽しみの一つは、アルザス成城の同窓会に参加すること。母校は2005年に閉校してしまいましたが、卒業生の強い絆が感じられる、温かいイベントです。

    木村さんが翻訳を手掛けた書籍の数々。ジャンルは地政学から美術関連までと幅広い木村さんが翻訳を手掛けた書籍の数々。ジャンルは地政学から美術関連までと幅広い
    小川隆夫

    小川 隆夫 Takao Ogawa

    成城学園初等学校、中学校、高等学校(1969年卒)音楽ジャーナリスト、整形外科医、ミュージシャン

    中学1年の1月の頃、ベンチャーズ、ビートルズが出てきたんだよね。日本では、まだレコードは発売されてなくて、ぼくはFEN(現AFN)で初めて聞いたんだ。「なんかカッコイイのがでてきたね」ってそれがビートルズだった。周りの音楽好きの友達も皆、影響されてね。自分たちもバンドを組んだんだ。中学生のアマチュアのバンド。その頃、周りでそんなことをやっている人はいなかったよ。
    中学2年になると、ビートルズが本格的に流行りだした。そう、エレキブームが来たんだ。そうしたら、「ロックは不良の音楽だ」となって、ほとんどの学校でエレキ禁止令が出ちゃって。でも、成城は違った。バンドの練習は音楽室を使えたし。やりたいことをやりたいだけやっていいという感じがあった。練習すると、今度は人にきかせたくなるものでしょ。先生たちにそう言ったら「学園祭でやったら」って。先生たちがぼくたちを温かい目で見て育ててくれた。成城だったから自由に音楽ができたと思う。 友達とロックに夢中になりながら、ジャズに出会ったのもこの頃。
    64年6月、アイビールックが全盛でVANやJUNがぼくたちの憧れ。兄貴に今年はマドラスチェックのボタンダウンのシャツが流行るときいて。シャツが1800円くらいだったかな。小遣い2000円持って、銀座のテイジンメンズショップに行ったんだ。店内には、かっこいいボサノバがかかっていた。そのギターの音に親しみを感じて、「この音楽はなんですか」「どこで買えますか」と聞いて、結局シャツではなく、ヤマハでレコードを買って帰った。そのアルバムがスタン・ゲッツ&ジョアン・ジルベルト。すっかり気に入って、3枚目に買ったアルバムが、ボサノバじゃなくてジャズだったんだよ。そこで初めてジャズを聴いたんだけど、正直分からなかった。でもせっかくなけなしの小遣いで買ったんだからと思い、何度も聴いているうちにだんだん好きになった。それからいろんなミュージシャンを聴くようになって、すっかりジャズの虜に。
    一浪して医学部に入って医者になり、専門は整形外科を選んだ。勤務医になってからニューヨーク大学の大学院にリハビリテーションを学ぶために2年間留学した。いや、医学半分、ジャズ半分かな。医者になってからずっと忙しかったら、本場でジャズが聴けるのがうれしくて、ジャズ・クラブでレポートを書いて、図書館に通うという日々。クラブに通ううちに多くのジャズ・ミュージシャンと知り合いになって、それが日本のジャズ関係者に知られることになって、『スイングジャーナル』のレビューを書くようになったんだ。巻頭特集も担当したし、あまりに書くページが多いからペンネームを3つ使って書き分けてたくらい。
    その流れでマイルス・ディヴィスにインタビューできたんだよね。マイルスとの貴重な経験は『マイルス・ディヴィスの真実』『マイルス・ディヴィスが語ったこと』にまとめてある。
    やりたいことは全部やってこれて、しあわせな人生だなと思う。今の自分ならできることは何かって考えて、バンドをつくったんだよ。これは、マイルスの遺伝子を受け継ぐバンド。この音楽でみんなを驚かせたいと思って、今はいろいろ仕掛けている最中なんだ。

    ジャズ・ミュージシャンたちとの交遊を綴った著作。ジャズへの愛情と造詣の深さがつまっている。ジャズ・ミュージシャンたちとの交遊を綴った著作。ジャズへの愛情と造詣の深さがつまっている。
    御徒町凧

    御徒町 凧 Kite Okachimachi

    成城学園高等学校(1996年卒)詩人

     僕が、成城に入ったのは高校からです。下見に来た時に、校舎やその周辺に漂うなんともいえない心地よい雰囲気をいっぺんで気に入ってしまった。家から1時間半もかけて通うのは正直しんどいし、もっと近い学校に行くことも考えたけれど、家から遠いことを差し引いてもどうしてもこの学校がいいと思えるほど強烈に引かれたんです。
     高校時代の僕のお気に入りの場所は、旧校舎の周りに巡らされた入り組んだ砂利道にぽつん、ぽつんとあったベンチ。休み時間になると、ベンチに座って過ごすのが僕の定番でした。パックのコーヒーを飲みながら、何をするわけでもなく、ただ木々の移ろいを眺めているのがすごく好きでした。僕、その頃からちょっと老成していたんでしょうね。ベンチに座ってぼーっと過ごす姿を見た級友たちから、「おじいちゃんみたいだね」ってよくからかわれてました。
     成城のあちらこちらに巡らされて季節によって表情を変える植栽や池......。当時は「いい景色だな」なんて、しみじみと感じていたわけではなかったけれど、心には確かに刻まれていたのだと思う。卒業してからも、あの頃のさまざまな光景を反芻するようにして生まれた詩がいくつもあります。
     時は移り、今は僕にとってはとても思い出深い校舎も、僕がお気に入りだったベンチももうありません。でも、大人になった今、成城を訪れてみると、やっぱり他のどんな場所とも違う、圧倒的な心地よさが変わらずここにある。成城で味わったその心地よさは、僕の創作活動にこれからもずっと生き続けていくような気がしています。

    武藤 十夢

    武藤 十夢 Tomu Muto

    成城学園中学校、高等学校 成城大学経済学部(2017年卒)タレント(AKB48)

    中学校から成城学園に入って、びっくりしたのは、初等学校からの子たちがフレンドリーに接してくれたことです。はじめて会ったのにすぐに名前で呼んでくれて、その時はとまどいましたが、その分はやくなじめた気がします。
    中学校ではダンス部に入ってひたすら練習していました。体育会系でけっこう厳しいんですよ。高校でも、もちろんダンス部です。そのころ話題になっていたのがAKB48だったので、実は高校1年の終わりごろに、友達にも誰にも言わずに一人でオーディションを受けてみたんです。どうせダメだろうなと思っていたのですが、受かってしまって(笑)。ダンス部を退部して、高校2年からはAKB48の研究生としての生活が始まりました。とはいえ高校生ですから学校が基本ですし、周りの友達も「がんばってね~」という軽い感じで(笑)、だから、それまでと大きく生活が変わった感じはしなかったです。
    ダンス部だったのでダンスには自信があったんですが、部活でやっていたヒップホップ系のダンスとは、タイプが違うんですよね。マイクを持って踊ることにもなかなか慣れませんでした。自分で思っていた以上にできなくて、はじめのうちはちょっとあせることもありました。曲数も多いし、振付を覚える時間もないので、休み時間にDVDを何回も見たりしていました。
    大学生になって、時間の融通ができるようになると活動の幅も広がって、「AKB48の武藤十夢」を実感することも増えてきたのがうれしかったですね。
    今年の春、大学を卒業するにあたり、「AKB48」で「大学生」だった自分はどうあるべきか。いろいろ考えて、「大学院生」になることを決意しました。大学時代に雑誌で投資の連載を持たせていただいて、経済について興味がでてきたのも理由のひとつです。
    「迷うなら、やったほうがいい」。自分の道を決める時には、この考えが基本にあります。だから、これからもいろんなことに挑戦していきたいです。

    岡崎 誠一

    岡崎 誠一 Seiichi Okazaki

    成城幼稚園 成城学園初等学校、中学、高等学校(1988年卒)弁護士(日本、ニューヨーク州)/森・濱田松本法律事務所

    「仮説実験授業」――。数多くある成城学園での思い出の中で、特に印象深いのが、初等学校のこの授業です。初等学校3年から梅組で、担任は上廻昭先生でした。上廻先生は理科が専門で、授業で実験をやる時など、事前にいくつかの仮説を立てて、どんな結果になるか私たちに予想させるのです。答えだけではなく、どうしてそう考えるのか、理由も合わせて説明して、クラスの友人と議論することが求められます。「正しい答えを当てられるか」ということよりも、自分の意見を合理的にわかりやすく他の人に伝えることを重視していた授業でした。 この「仮説実験授業」は、自分にとってはとても面白く、現在の仕事を選択する際にも影響していたように思います。小学生で合理的に物事を考え、他人と意見をやりとりする楽しさを知ったことは大きかったですね。
    中学校時代は、実は、あまり素行のよろしくない生徒でしたが(笑)、高校入学のころから、自分の将来を考えるようになり、法律家の道を志しました。大学は別のところを受験すると決めたので、必死で勉強しました。人生で一番勉強した時期かもしれません。英作文が苦手だったので、英語の先生に無理をお願いして、毎日、英作文の添削をしてもらいました。本当に感謝しています。おかげさまで、何とか志望校に合格できました。 大学4年のときに司法試験に合格。日本で弁護士になった後、米国に留学し、ニューヨーク州の弁護士資格も取得しました。現在、M&Aや国際取引をはじめ、上場・非上場の会社やファミリービジネス向けの企業法務を専門としています。国際的な契約交渉や契約書の作成などの業務には、もちろん英語が必須となりますが、帰国子女でもない私がこうした業務をやっていくだけの英語力を身に付けられたのも、大学入試の際に、先生に添削してもらった英作文の特訓が礎になっていると、ふりかえって実感します。 
    今は、弁護士として、企業経営者やオーナーが直面する重大な問題についてアドバイスする責任の大きさを感じる毎日です。30代の若いころ担当した大きな企業買収取引で契約交渉が難航したとき、自分の肩にこの企業の未来がかかっていると思うと、夜寝ていても、はっと飛び起きることもありました。
    初等学校時代にお世話になった上廻先生の言葉で、忘れられないものがあります。 「人生で大切な3つの"き"がある。それは元気、やる気、そして落ち着きだ」。やる気がなければ、難しい交渉事にあたることはできないでしょう。元気がなければ、課題に直面しているクライアントを励まし、共に解決に向かっていくことは難しいものです。そして、落ち着き、つまり冷静さと客観性がなければ、弁護士として務まりません。今も、この「3つの"き"」を思いだしては、自分の指針とし励みにしています。

    弁護士として、M&Aや国際取引をはじめ、上場・非上場の会社やファミリービジネス向けの企業法務に取り組む弁護士として、M&Aや国際取引をはじめ、上場・非上場の会社やファミリービジネス向けの企業法務に取り組む
    村井 説人

    村井 説人 Setsuto Murai

    成城大学経済学部(1997年卒業)株式会社ナイアンティック 代表取締役社長

     学生時代といえば、思い出されるのが、経済学部の神田範明先生のゼミ。特に論文ではよくしごかれました...(笑)。でも、「物事を進めるためには仮説と立証が重要で、もし失敗しても諦めずに証明する方法を考え続けることだ」という神田先生からの教えは、社会人になった今も私のベースになっているんですよ。
     私は卒業後、新卒でNTTに就職後、ベンチャー企業を経て、グーグルに入りました。ここではストリートビューなどの「Google マップ」のサービスを担当。50年後、100年後の未来に、現代の風景を残すという社会的にも貢献度の高いサービスを作ることができました。その後、「Google Earth」の生みの親、ジョン・ハンケからの誘いで入社したのが、『イングレス』や『ポケモンGO』を運営するナイアンティックです。現在、日本法人の代表を務めていますが、具体的にはサポートしてくださる企業との新たなビジネス展開に力を入れています。一例を挙げると、我々とパートナーシップを結んだマクドナルドに、ポケモンGOのユーザーが訪れるとゲームがいっそう楽しめるといった仕組み作りです。ユーザーが集まれば、店舗での購買にもつながる。つまり、オンラインゲームながら、リアルの世界にもプラスへと働いていくようなビジネスの新たな可能性を追求しています。
     『ポケモンGO』をリリースし、これまでゲームをほとんどしたことのない層にまで、予想以上の反響が得られました。私自身、「びっくりした!」というのが正直なところです。人が外に出て体を動かすと、健康になって、世の中全体が幸せになるんじゃないか。我々が理想として掲げてきた仮説が、社会にとって価値があると立証されたのが何よりうれしいですね。今後も、新しい価値観を創出できるような仮説を立て、粘り強く立証へと導く努力を重ねたいと思っています。

    鴻巣友季子

    鴻巣 友季子 Yukiko Konosu

    成城学園中学校、高等学校、成城大学文芸学部(1986年卒)翻訳家、文芸評論家、エッセイスト

    小さい頃はちょっと病弱だったこともあって、すごく内向的で引っ込み思案だったんです。今ではあんまり考えにくいんですけど(笑)。いつも本を読んでいて、本を盾にしているようなタイプ。親の強い希望で、中学から成城に入りました。成長するにつれ体も丈夫になってきて、器械体操部と文芸部に入って好きなことをのびのびやっていました。
    この文芸部が毎年夏にしっかりと合宿をする珍しい文化部だったんです。
    顧問の小倉脩三先生が指導熱心だったんでしょうね。「文化部の合宿なんてほとんど遊びだと思っているかもしれないが、うちはちゃんとやるから」って、わたしが中3のときには、課題図書が5冊も出たんですよ。
    しかも選書もすごくて、今でもはっきり覚えていますが、大岡昇平の『野火』と『俘虜記』『事件』、そして安部公房の『砂の女』『箱男』。ここで初めて安部公房という作家と強烈な出会いを果たしたんです。それまで『あしながおじさん』『嵐が丘』という王道の外国文学を読んでいたのに、しばらくは前衛文学にはまっていたくらい。
    受験勉強もなかったせいでしょうか、大学に入ってはたと「自分はとことん何かをやっていないのでは」と、ある焦燥感に突き上げられた時期がありました。19歳の冬、喫茶店で何気なく手に取った写真週刊誌に、翻訳学校の広告が載っていたんです。それを目にしたとたん、すべてがぱっと結びついて。書くのが好きだし、海外文学が好きだし、語学も好きだし。このとき「翻訳家になる」と決めました。いまでも「天啓」のように思っています。
    それからはいっそう原書を読むようになりました。2016年にお亡くなりになりましたが、ジェイムズ・ジョイスの大家であり怪物級の翻訳家である柳瀬尚紀先生が成城大学で助教授として教えてらしたんです。その柳瀬先生に、ずうずうしくもカポーティの『誕生日の子どもたち』の訳文を持っていきました。あっさりと「弟子はとらないから」と言われましたが。
    柳瀬先生は訳文を見せても、ちらっと見て誤字があったらそれで終わり。よくても、いいところだけグニュグニュって赤線がひいてあって、それだけ。ですので、ほぼ独学ですね。ゼミも入りましたが、どちらかというと柳瀬先生の書生みたいな感じで運転手をしていました(笑)。そこで翻訳関係者とも面識ができて、専門誌に連載を持つようになり、徐々に翻訳家として活動していきました。
    2003年に上梓した『嵐が丘』は私が手掛けた最初の古典新訳です。そのころはまだ今ほど古典翻訳がさかんではなかったので、その点でも注目を集めたようです。駆け出しの頃からいつかは古典翻訳をやりたいと考えていたので、依頼がきたときはうれしかったですね。
    中学時代、文芸部の合宿から始まって...ふりかえると、翻訳家としてのトレーニングはすべて成城でやっていたように思います。成城のいいところって嫉妬みたいなのがないんです。偏差値や受験競争で比べられる機会がないからなのかもしれません。画一的な数字やグレードみたいなもので人をむやみとうらやむとか、萎縮するっていうことがない人たちが多かった。だから、ある意味すごくオープンで、本当の意味での平等主義という雰囲気がありましたね。やっぱりそれはこの学校のいいところ、健やかなところだと思います。 つまりは、凝り性というか突き詰めたいタイプの人がうまくこの環境にはまると伸び伸びと育めるっていうことではないでしょうか。

    『ポケットマスターピース』(集英社文庫)では、全13巻の編集委員を務めた『ポケットマスターピース』(集英社文庫)では、全13巻の編集委員を務めた
    初めて古典新訳を手掛けた『嵐が丘』と『風と共に去りぬ』(共に新潮文庫)初めて古典新訳を手掛けた『嵐が丘』と『風と共に去りぬ』(共に新潮文庫)
    枡田 絵理奈

    枡田 絵理奈 Erina Masuda

    成城大学文芸学部(2008年卒)フリーアナウンサー

    中学生のときから、アナウンサーになりたいと思っていました。テレビでアナウンサーが話しているのをみて、才色兼備な感じがかっこいいなって。それに私は一人娘だったので将来、両親を支えるために(笑)、専門的な職業につかなくてはと思っていたんです。 大学受験で、成城大学に入学を決めたのも、自分の夢に近いかなと思ったからです。アナウンサーとして活躍している方々も多く、卒業生で当時TBSのアナウンサーだった雨宮塔子さんに憧れていたこともあり、第一志望じゃなかったけど迷いはありませんでした。それに、見学でキャンパスを訪れたとき、なんとなくのんびりした雰囲気で、私に合ってるのではと感じたのも大きかったですね。
    入学して学部のオリエンテーションがあって、そこでみんな自己紹介をしたんですが、一人の女子学生が「将来、アナウンサーになりたい」って話したんです。それに力をもらうように、私もアナウンサーを目指していると言いました。ちょっと恥ずかしい気持ちもありましたが、誰も冷やかしたりすることなく、「いい夢だね。がんばってね」という反応で、とてもうれしかったですね。ちなみに、先にアナウンサー志望だと語った彼女も、フリーアナウンサーとして活躍しています。今でも仲よしなんですよ。
    大学時代は、アナウンサースクールに通ったりもしていました。そこで「専門的な勉強は後からでもできる。今は学生らしい経験をたくさん積むことが大切」といわれて、それからはより真剣に、授業に身が入るようになりました(笑)。私が所属していたのはヨーロッパ文化学科ですが、「ヨーロッパのサッカーチームについて」をテーマにとても詳細な発表をする学生がいて、後日サッカー番組を担当することになったとき、役にたちました。マスコミュニケーション学科の講義もとっていたので、専門的なものと自分の視野を広げるものと、多彩な講義を受けられたのは、本当によかったと思っています。
    卒業して、アナウンサーになったとき、はじめて担当した番組でOBの安東弘樹さんとご一緒したり、「チューボーですよ」で雨宮さんとご一緒したり、いろんなところで成城の絆を感じます。 最近、フリーとして活動をはじめるようになりました。これからもわたしらしく自分のペースで、ゆるりとやっていけたらと思います。

    川上紹雪

    川上 紹雪 Johsetsu Kawakami

    成城大学文芸学部(1982年卒)江戸千家宗家蓮華庵副家元

    成城大学に入りたいと思ったのは、西山松之助先生がいらしたからです。先生は近世文化史の第一人者で、特に家元制度と江戸町人文化研究の権威でいらっしゃいました。
    茶道にももちろん造詣が深く、茶杓をご自分でお作りになるのです。その時、お教えくださった「利休がやったのと同じようにやらなくてはならない」という言葉がとても印象に残っています。約450年前、千利休が何を考え、どうしてその行動をとったのか、想いをめぐらすことが大事だと。
    茶杓の工程で、櫂先を形作るために材の竹をあぶる作業があるのですが、その時に、西山先生はやおらガスバーナーを持ってこられてそれをお使いになった。そこで「あれ?」と。先ほど「利休と同じように」と仰っていらしたのにって(笑)。ですが、よくよく考えてみると利休さんの時代に、ガスバーナーがあったなら、きっと利休さんはそれを使ったと思うのです。表層的に伝統を追いかけるのではなく、その想いまで、深く考えることが大切なのだと、先生は仰りたかったのだと捉えています。
    大学を卒業した後は、京都・大徳寺の如意庵に参籠し、立花大亀老師の許で修行をさせていただきました。修行といっても出家したわけではありませんでしたが、老師のおそばに仕えながら、勤行(読経・礼拝)をしたり、作務(農作業・掃除)をしたり、という生活をしていました。この期間は自分と向き合うための大切な時間でした。夏の暑い日、草むしりをしながら「なぜ自分はこんなことをやっているのだろう」と繰り返し自問するなかで、自分には進むべき茶の湯という道があるのだという覚悟が備わってきたように思います。
    東京オリンピック・パラリンピック招へいの際には、「おもてなし」という言 葉がずいぶんと注目をあびました。「おもてなし」といえば茶道はその最たるものですが、私は「おもてなし」には、「おもいやり」の精神がなくてはならないと思っています。人に対するおもいやりの気持ちからはじまって、自分が何をなすべきか考え、想いを表す。茶道は、亭主と客という異なった立場の複数の人が寄り合って、同じ空間・同じ時間を共有し、お互いに思いやり合いもてなし合うことによって平和で心地よい場を作り上げていくものです。この茶道を通じて、日本文化の大切さを伝えていくことができたらと願っております。

    初釜の露地(茶庭)。松葉が丁寧に敷きつめられ冬の装いに初釜の露地(茶庭)。松葉が丁寧に敷きつめられ冬の装いに
    緑色が美しい濃茶緑色が美しい濃茶
    室井 摩耶子

    室井 摩耶子 Mayako Muroi

    成城学園初等学校、成城高等女学校(7回紫苑組)(1938年卒)ピアニスト

    昨年末に、「ハイドンは面白い!」というテーマのコンサートを開催しました。
    ハイドンって、練習曲のイメージが強いでしょ。つまらない、分からないって言う人が多くて。でも彼はとても天才的。楽譜と向き合って「この休符の意味はなんだろう」「このピアニシモはどう弾けばよいのか」、一つひとつ考えて読み解いていくと、とても奥深い曲であることが分かります。楽譜は記号の集まりともいえますが、作曲家の素晴らしい物語が秘められている。それを読みとくには「音楽文法」がとても重要なんです。
    95歳で現役ピアニストですから、「なぜそんなに元気なの?」「そのパワーはどこから?」 と皆さまからよくたずねられます。
    それはやっぱり成城の教育を受けたから! 成城は「本物であることへの憧れ」を大事にしていて、子どもには一流品に触れる機会を多くつくっておりました。音楽の授業では尋常小学校の唱歌ではなく、シューベルトやブラームスの子守唄を歌ったり、帝展(日展)を観に行ったりという具合。
    そして、「考える」ことをとても大事にしていて「よみかき」よりも「聴く・話す」の力を伸ばす授業に力を入れていたんです。
    私は女学校を卒業して、東京音楽学校(現・東京藝術大学)を首席で卒業したのですが、それは成城の「自ら考える」教育が染みついていたからだと思いますね。 卒業してピアニストとなってからも、「自分の演奏には何かが足りない」と思い続けていました。1ドル360円の時代、オーストリア・ウィーンにモーツァルト生誕200年の記念祭があり、そこに日本代表として行くことになりました。そして、そのままドイツ留学生となり、音楽の基礎である音楽文法という考え方を会得いたしました。それからは作曲家の伝えたいことを見つけると同時に、自分の演奏がどうあるべきか、追求する毎日でした。深さと広さで本物を求めながら、13カ国でプロのピアニストとして活躍をし、61歳の時、日本に帰国しました。地に足をつけて生活して、自分の芸術をさらに深めようと思ったからです。もう何十年もピアノを弾き続けていることになりますね。ですが、飽きるなんてことはありません。毎日4~8時間練習していますが、それでも新しい発見があります。「本物」を探すことは、本当に楽しいんですよ。小学校時代にすりこまれた「本物への憧憬」のおかげだとありがたく思っています。

    海外で活躍していたころの室井さん海外で活躍していたころの室井さん
    今でも毎日の練習は欠かさない。4~8時間はピアノに向かっている今でも毎日の練習は欠かさない。4~8時間はピアノに向かっている
    山田 哲夫

    山田 哲夫 Tetsuo Yamada

    成城学園初等学校、中学校、高等学校(1965年卒)前UNIDO主席統計官兼工業経済研究部次長

    父とその6人の妹・弟が小学校(父の代には牛込在)から旧制高校・女学校まで成城学園にお世話になり、澤柳教育の基底である個人主義に基づいた共同体精神、言い換えれば人道精神を基にした民主主義思想に心髄した結果、又、家も中・高等学校から200メートル位と近いこともあり、僕も当然のように学園の初等科から高校まで通学することになりました(幼稚園は入試失敗)。

    高校卒業(1965年3月)後、東京と米国と英国の三つの大学で学んだあと、国際開発協力の分野で仕事をすることにしたのも、成城学園の上記教育精神に決定的に影響された選択でした。
    日本の政府間国際開発協力(ODA)活動に計三年間係わった後、1976年より定年退官した2007年末まで発展途上国の工業開発を側面技術援助する国連工業開発機関(UNIDO)の本部(ウイーン)に勤務しました。
    ここでは、国際産業統計、各途上国の産業政策に資する工業経済研究、途上国の産業統計インフラの開発協力、産業統計その他の統計の国際統計基準の改新などに関する仕事をしました。

    これらの仕事のどれをとってみても、目指すところは我々が属する地球共同体内(特に発展途上地域)に存在する貧困とそれに起因する地球規模の数々の重大問題(飢餓、子供たちの基本的人権の不確立、テロ、国際組織犯罪、内戦、差別、伝染病、風土病等々)の撲滅・解決、言ってみれば国内、各国間に存在する不公平、不平等、不公正の是正とそれによる国際平和と繁栄です(これらは国連活動の究極の目的)。
    成城学園の教育精神が無意識に身についていたからかどうかはわかりませんが、国連で与えられた個々の仕事において自分なりの上記のような目的意識がいつもはっきりしていたのは事実です。したがって、僕はいつも楽しく仕事をすることができ、これは誇張無しで成城学園のおかげだと思っています。

    僕は定年後もウィーンに住んでおり、急速にグローバル化している世界を感じています。外から見ると日本には上記のような問題意識を持った真の国際人が非常に少なく感じられます。これは日本の将来にとって大きなハンデキャップです。人間相互に認め合う個人主義と共同体精神に裏打ちされ、皆から慕われる成城っ子が、「地球社会での公平、公正、平等の確立」→「世界の安全と繁栄」→「日本の安全と繁栄」→「自分の生活の質の向上」という関連を認識すれば、彼らは自分たちの職業や私的活動を通して真の国際人になれるし、従って世界如いては日本の繁栄と安全に多大な貢献ができると思います。

    浅田 佳津雄

    浅田 佳津雄 Kazuo Asada

    成城学園中学校、高等学校 成城大学法学部(1998年卒)株式会社ウェザーニューズ スポーツ気象チーム

    私は、幼馴染が初等学校に通っていたこともあり、中学から成城学園に入りました。
    中学入学から大学までの10年間は、ラグビー部に所属し、兎にも角にもラグビーに明け暮れ、卒業した今でも、ゼネラルマネージャーという役割で成城学園ラグビー部に関わらせて頂いています。
    成城に通って良かったと思うことは「人の縁」です。
    ラグビーの仲間は勿論、クラスメイト、同級生、先輩、後輩、部活/世代を超えて、素晴らしい人間関係を、今でも継続出来ていることです。
    成城への入学、ラグビー部入部、ウェザーニューズに入社したのも、今でもラグビー部に関わらせて頂いているのも、全て成城学園で得た「人の縁」のおかげで、今の自分があると、強く感じています。そんな、私の財産である「人の縁」を与えてくれた成城学園、そしてそんな成城に入学させてくれた両親には感謝しています。
    現在、仕事は、ウェザーニューズという気象情報会社で、「スポーツ気象」という新たな市場の立ち上げにチャレンジしています。
    スポーツ(特に屋外競技)と気象は密接な関係にあります。
    突然のゲリラ豪雨や、熱中症等のような気象的がリスクもありますので、安全性の確保のための気象情報。また、試合当日の天気や、風向風速、気温/湿度によって、戦略/戦術、選手起用、試合当日までの準備が変わり、この準備によって勝つ確率も変わるため、勝率を上げるための気象情報としての活用が徐々に広がりつつあります。
    実際に、2016年夏にはリオデジャネイロに行き、7競技18チームの日本代表チームを現地でサポートさせて頂きました。
    このように気象とスポーツが密接な関係にありながらも、まだ本格的に活用しているのはトップチームが中心です。今後は、日本代表、プロ、アマ問わず、スポーツをする人全てが「気象情報を活用することを当たり前にする」ということを目指し、啓蒙、普及、活用促進を行い、スポーツマンの安全を確保した上で、さらに勝率を高められるようなサポートしていきたいと考えています。

    2016年8月、気象面でサポートしたラグビー日本代表チーム岩渕GM(当時)(写真左)とリオデジャネイロにて。
岩渕氏は、同級生で青山学院卒のため、中高大とライバルであったという縁もある。
2016年8月、気象面でサポートしたラグビー日本代表チーム岩渕GM(当時)(写真左)とリオデジャネイロにて。
    岩渕氏は、同級生で青山学院卒のため、中高大とライバルであったという縁もある。
    年に1度、恒例の「ラガー祭」。ALL成城学園ラグビー部(小学生~大学生)を中心に、OBや保護者が集まり、一致団結、ONE TEAMになることが成城ラグビー部の「らしさ」であり、他校にはない「強み」。年に1度、恒例の「ラガー祭」。ALL成城学園ラグビー部(小学生~大学生)を中心に、OBや保護者が集まり、一致団結、ONE TEAMになることが成城ラグビー部の「らしさ」であり、他校にはない「強み」。
    水原 恵理

    水原 恵理 Eri Mizuhara

    成城学園高等学校 成城大学文芸学部(1999年卒)テレビ東京アナウンサー

    私の父が成城大学のラグビー部の監督だったので、小さいころは父に連れられて成城の運動会を見に来たりしていましたね。高校生の時は、成城幼稚園の裏に住んでいました。歩いて一分(笑)。
    父は、成城がのびのび・和やか・みんな仲良くの校風にそぐわぬチョー怖い鬼監督だったんですよ。そんな鬼に育てられたので、私もバリバリ体育会。高校から成城に入学して、グランドホッケー部に入りました。インターハイに行きたかったんです。「グランドホッケーは競技人口が少ないからインターハイに行ける」と耳にして、よしチャンスだと。そうしたら成城がインターハイにいったのは数十年も前で、最近は東京大会の予選も負けていると知って、「これはまずい」と思い、バリバリ体育会少女水原は、みんな初対面の中で運動神経の良い子を聞き出して、「ホッケー部入ろう」って勧誘しまくりました。
    外部生ってほんの一握り。いってみれば、よそ者なんですけど、私は図々しい性格なんでしょうね。。。他の人からすれば初対面のよく知らない子から、いきなり「ホッケー部入ろう」と誘われたわけですから「とんでもないやつが入ってきたな」という感じだったみたいです。
    高校はホッケー漬けでした。授業中もホッケー部のメンバーで交換日記回して、今日の朝練でここがダメだったとか、午後はあそこを強化しようとか......。その成果もあって、3年生のとき、インターハイに行きました。インターハイの前にある秋冬の関東大会に出るのも、もう相当久しぶりで、おかげで体育会の予算が足りなくなったそうです(笑)。
    テレビ東京に入社して、上司から「スポーツを伝える上で、やっていたことは、全く生きないから」。「いかに見てたか、いかに伝えるか、だからな」と鼻を折られました。そして「下積みは長ければ長い方がいい。現場行って来い!」ってことで、ひたすら現場です。でも"コツを掴むまでは地道な努力だ!"という体育会精神の中で育ってきたので、むしろ下積みが楽しくて。
    先輩に、「7年目まではひたすら辛いけど、7年超えたら楽しくなるから」って言われたんです。本当に7年目ぐらいから、変わってきましたね。できることが増えてくる、悩みの質も変わってくるっていう。やっぱりベースができないと何事も楽しくない。スポーツもアナウンサーも、一緒なんだと思います。

    荻上 チキ

    荻上 チキ Tiki Ogiue

    成城大学文芸学部(2004年卒)評論家

    僕は文芸学部国文学科卒です。僕の友人関係の中では、古典作品にしろ流行作品にしろ「あれ読んだ?」「僕は読んだよ」という風に背伸びしあいをするような感じが当時はありましたね。
    石原千秋先生という漱石研究者の元で、文学理論などを学びました。厳しいと評判だった先生の元で学んだことは、自信にもなりまし、思考の型を築くことができました。
    当時の成城には、「この講義は抑えておきたい」と思わせる先生方が星座のようにちらばっていて、それを紡いでいくのが楽しかったです。
    僕は石原ゼミで文学理論を学ぶ一方で、他学部の演習や他大学の授業にもよく潜り込みました。成城には大人しい大学というイメージが強いかもしれませんが、成城をベースにしながらも、小さなコミュニティの中だけでは収まらないぜ、というとがった学生にはいいサイズ感の大学という気がします。

    橋本しをり

    橋本 しをり Siwori Hashimoto

    成城学園中学校、高等学校(1971年卒)NPO法人フロントランナーズ・クライミング・クラブ(FRCC)代表
    沢田はしもと内科 院長、東京女子医大神経内科 非常勤講師

    私が登山を続けることになったきっかけとして、中学時代に3つの印象的なことがありました。
    1つは生物部で本格的な補虫網を手に、道なき道を分け入り、山の中にいる心地よさを知ったことです。2つめは恒例の北アルプス表銀座登山時に、槍ヶ岳への道中でいつの間にか友人3人だけになった時、「大丈夫か」と先生が突然顔をみせてくれほっとしたこと、寒い早朝の槍ヶ岳の頂上に皆で登ったときに強く心に残った一体感です。3つめは50周年記念講堂で行われた映画会でガストン・レビュファの「天と地の間に」に映し出された青い空と鋭い岩峰でした。
    これらの成城での自然とのつきあいを経て、大学で山岳部に入り、前穂高4峰成城ルートを登るのが目標になりました。卒業後は山はやめると決心していましたが、登山を解禁したブータンへの登山隊第一号の隊員として高所登山を始めていました。そして1988年8,000m峰であるガッシャブルム2峰(8,035m)に日本女子登山隊の隊長として4人の女性と共に登頂していました。これらの経験を踏まえてがん体験者と山を登るクラブ(フロントランナーズクライミングクラブ)を作り、2016年末で190回の山行を重ねてきました。その中には抗がん剤治療中の成城の後輩との印象的な涸沢行きがありました。また、がん転移後の同級生の「もう一度槍ヶ岳に行きたい」の言葉に胸をつかれ準備を重ねて槍の肩まで行き無事に帰ってきて、偶然その年の中学生達とほぼ同時に河童橋に到着した時には何か深い思いにとらわれました。
    2002年日中国交回復30周年記念 日・中友好チョー・オユー峰(8,201m)女子合同登山隊、2005年日・中友好チョモランマ峰(8,848m)女子合同医学登山隊と2回の中国との合同登山隊の隊長をしたときも成城で培った自治自律と寛容心のスピリッツ、よい意味での楽観主義が大いに役立ったと思っています。

    1988年8月、ガッシャブルム2峰(8035m)頂上。日本女子登山隊の隊長を務めた。左から2番目、国旗を持っているのが本人1988年8月、ガッシャブルム2峰(8035m)頂上。日本女子登山隊の隊長を務めた。左から2番目、国旗を持っているのが本人
    米国乳がん財団と北アルプス奥穂・涸沢登山を実施米国乳がん財団と北アルプス奥穂・涸沢登山を実施
    伊藤 裕子

    伊藤 裕子 Yuko Ito

    成城学園中学校、高等学校 成城大学法学部(1997年卒)女優、モデル

    中学ではバスケット部の思い出が強いですね。当時、バスケ部は強かったので、練習も厳しくて、先輩も厳しくて。毎日授業が終わったら、体育館に直行です。中学の講堂のところから入って階段を下りて。歩く音が響くんですよ。「今日も練習か」ってちょっと少し重い気持ちもありながら、でも好きだし楽しいしっていう、あの感じをすごく思い出します。
    高校ではグランドホッケー部に入りました。結局、運動部。走ることからは逃れられない、みたいな(笑)。中学もそうでしたが、ホッケー部の先輩たちも素敵でした。厳しいから怖いんですけど、憧れてましたね。
    大学時代にモデルの仕事を始めて、卒業のころにドラマの出演がきまりました。 やっぱり初めは緊張しますし、怖かったですね。でもそこでプツッと折れたら、多分折れたままだったと思うんです。あの時、頑張りとおせたのは、自分の中で、「ここが頑張りどころだ。怒られても行かないと次はない」っていうのが分かっていたから。絶対運動部だったからと思います。ほら、試合にでたら、結果をださないといけないのに似てますよね。
    成城は、根本に楽しさがあるんです。それをちょっと甘いなんて言われちゃうこともありますけど。 でも、それが私には良かったです。つらいときでも楽しむことを忘れてはいけないっていうのが成城で学んできたこと。実は、楽しむのって強さだったりするじゃないですか。苦しいときに笑うとか、楽しんで明るく取り組むことって、結構難しい。年齢がたつにつれて、その強さがすごいことだと思うようになりました。それがやっぱり成城にはあるのかなあって。
    それと、男の子がみんな優しいんですよ。男性がほんと包み込んでくれてるんだと思う。ジェントルマンだもん、成城の男性って。女性に優しいし、その中で女性は伸び伸びと強くなってる感じがします。

    諸橋 友良

    諸橋 友良 Tomoyoshi Morohashi

    成城大学経済学部(1988年卒)ゼビオホールディングス株式会社代表取締役社長

    『濃い部活はDNAに刻まれる』
    当時を振り返ると、学業もさることながら、体育会というコミュニティーに魅かれ、支えられ、今もなお、学部は?と問われれば、テニス学部!と答えてしまいそうな大学生活でした。
    今ではその面影はありませんが(笑)、入学当初の私は、無口で、無愛想で、無骨という会津人の典型で、周りの友人たちから言わせると、取っ付きにくい人間だったと思います。またその認識が当人にはなかったので、よけいタチが悪かったかもしれません。しかし、そんな私でも暖かく迎え入れてくれたのが体育会硬式庭球部でした。また硬式庭球部のみならず、他の部との横断的な繋がりも強く、「体育会」というコミュニティーを通じて多くの良き先輩方、友人たちに恵まれたおかげで、会津人から成城人に進化した時代でした。
    先輩方、友人達の家族は一人暮らしの私を心配してか、食事に誘ってくれる事度々、しまいには友人が留守の食卓にチャッカリ座っていた事も! アルバイトの紹介、家族旅行への招待、人生相談・・・ 成城ファミリーの多くの方々のおかげで孤独な東京での独り暮らしを経験する暇もなく、大変充実した4年間を過ごすことが出来ました。
    また、体育会というコミュニティーでのつながりは、成城ファミリーに留まらず、他大学との交流の和を広げてくれるきっかけにもなりました。特に、四大学戦で切磋琢磨した当時のメンバーとは、ビジネスシーンにおいても良きパートナーとして関係が続いています。大学時代の関係性が社会人となった今もなお連綿と続いているのは、成城学園で過ごした時間の恩恵だと確信しています。
    私の体験談がベースとなっていると言ってもいい、当社グループのステートメントの一つである冒頭の『濃い部活はDNAに刻まれる』、この言葉には、続きがあります。
    部活、社会人スポーツ、プロスポーツ、その濃密なスポーツ経験はひとの根幹にがっしりと刻まれ、消えることはないと感じるのです。
    今の私は、ゼビオHDというスポーツリテール会社の代表として経営の指揮を執っています。経営者として飾らず、気負わず、自然体で社員と接することができるのも、成城学園の風土とそこに集う仲間、そしてファミリーが自分を変え、育んでくれたからだと確信しています。そして、体育会というコミュニティを学生時代のまんなかに置き、テニスというスポーツはもちろんのこと、その運命共同体に魅力を感じていた私にとって、そこから味わうことのできる感動を広げることができる今の仕事は天職だと思いますし、そのように思う土壌を作ってくれたのは間違いなく大学生活だったと思います。
    スポーツが創り出す感動のストーリー。
    スポーツが生み出す歴史と未知数の力。
    そしてスポーツで叶えられる未来。
    体育会で得た経験や想いは自身の根幹に刻まれ、今後も消えることなく私のDNAの一部として残っていくでしょう。
    後輩の皆さんには、幼稚園から大学までのワンキャンパスが形成する濃密な人間関係を魅力に感じ、自身のDNAに刻まれるような経験をして欲しいと思っています。
    そんな素晴らしい経験ができる学び舎、それがわが母校、成城学園です!
    まさに、「濃い成城学園の絆はDNAに刻まれる」のです。

    体育会硬式庭球部の仲間たちと。向かって一番右が本人体育会硬式庭球部の仲間たちと。向かって一番右が本人
    唯根 命美

    唯根 命美 Memi Yuine

    フードスタイリスト、日本サンドイッチ協会会長成城幼稚園、成城学園初等学校、中学校、高等学校、成城大学文芸学部(2000年卒)

    私は幼稚園から成城大学まで通った生粋の成城っ子。成城の友達とは今でもすごく仲良しですし、下からずっと一緒だから学年を飛び越えて仲良くできる関係性がある。そして社会人になり初対面だったとしても"成城出身"って分かっただけで意気投合してしまうのも成城っ子の特徴!大人になって感じたことなのですが、みんな成城が大好きなんだな~って思います。
    学生時代は勉強より遊ぶのに必死で、 初等学校の相撲大会に出て優勝したり、70周年記念の劇に選ばれて出たり、中学&高校では文化祭の司会したり、頭は良くないのに卒業式でクラス代表として証書を受け取ったり...いま考えるとただの目立ちたがり(笑)! 目を閉じると緑いっぱいの学校の中で笑ってる思い出ばかりです。
    卒業後はロンドンで生活し、イギリスで有名なシェフのテレビ番組の料理アシスタントをしながら、小さいころから大好きな料理やスタイリングを学びました。今はフードスタイリストとして広告や雑誌・本・イベントなどの仕事する傍ら、海外で出会った世界中の様々なサンドイッチを日本に広めていこうと「日本サンドイッチ協会」を立ち上げました。仕事がらレッスンやメディアなどで人前に立って話す機会も多いのですが、学生時代からそれに慣れていたせいからなのか、どんな状況でもリラックスし楽しみながら挑める自分がいます。育った環境ってとても大事ですよね。
    私は成城から「多くの感性・多くの仲間・多くのユーモア・多くの思い出...」など抱えきれないほどのものを与えてもらいました。
     今の自分ができてるのは、この校風があったからこそです。この大好きな成城学園が、200周年、300周年...と続いていくように心より願っています。

    著書「ケーキイッチ」が絶賛発売中。ケーキイッチとは 著書「ケーキイッチ」が絶賛発売中。ケーキイッチとは "ケーキのようなサンドイッチ"の事でおもてなしにぴったり。
    日本サンドイッチ協会主催のレッスンやインストラクター講座を毎月開催中。日本サンドイッチ協会主催のレッスンやインストラクター講座を毎月開催中。
    小川 智也

    小川 智也 Tomoya Ogawa

    成城学園中学校、高等学校、成城大学経済学部(2003年卒)郵船クルーズ株式会社 飛鳥Ⅱクルーズディレクター

    クルーズディレクターとして、4カ月船の上で生活し、2カ月お休みという生活をしています。この仕事に就いたのは、もともとはホテルマンに憧れていたからなんです。
    5月のころ、初夏の気持ちがいい日でした。大学4年の時、晴海にあるホテルの採用面接を受けたのですが、それがもうダメダメで......。面接が終わってから、海が見える公園へいって、素敵なシチュエーションなんですけど、ひどく落ち込みながらお弁当を食べてたんです。すると大きな客船が港に入ってきたのが目に飛び込んできて。「まさに動くホテルみたいだ!」って思い立ち、すぐに調べて就職活動をしました。その船が初代「飛鳥」だったんです。
    新人時代は4人部屋が割り当てられ、現場で仕事を覚えていくという生活でした。私の担当は「エンターテインメント」。乗船しているお客さまに楽しんでいただくショーやイベントを企画、制作、運営して、時には自分も舞台に立つという仕事です。人前に立つことなんて、それまでなかったので、はじめは恥ずかしかったですね。
    外国籍のスタッフも多く、英語でコミュニケーションをとる難しさも経験しました。アシスタント時代、ハワイアンの上司に「大切なのはハート。こうしたいっていう強い気持ちがあれば、必ず伝わるものだ」といわれたのが印象に残っています。
    もちろん大変なこともありますが、新人時代からずっとこの仕事を楽しめているのも、大学時代にアメリカンフットボール部に所属していて、集団生活の厳しさやチームプレイの楽しさを学んでいたからかもしれません。この経験は、自分の財産で、今でもチームを愛しています。世界中どの港にいても後輩達の試合結果はいつでも気にしていますよ。
    1人でやることには限界がありますが、スタッフ皆で協力しあい、お客様に楽しんでもらう空間、時間を提供するこの場所にいることにやりがいを感じています。
    ぜひ飛鳥Ⅱで船の旅を楽しみにきてください。

    全長約240メートルの「飛鳥Ⅱ」。乗客872名、乗組員470名がこの船で過ごす全長約240メートルの「飛鳥Ⅱ」。乗客872名、乗組員470名がこの船で過ごす
    ステージでは自ら楽器を手にし、演奏を披露することもステージでは自ら楽器を手にし、演奏を披露することも
    黒澤 和子

    黒澤 和子 Kazuko Kurosawa

    成城幼稚園、成城学園初等学校、中学校、高等学校(1973年卒)映画衣裳デザイナー、エッセイスト

    幼稚園から、成城学園に入ったのは、両親が受験をさせずに、おおらかに育てたいと思ったからだそうです。
    当時の成城学園は本当にノンビリとして、個人個人の良い所を育てようという、受験とは無関係の伸びやかな環境でした。
    登山や遠泳、校内大会に大運動会に小運動会、文化祭や劇の会など、スポーツも文化的な行事も両方盛んでしたので、その中で何か自分の自信に繋がるモノが見つかりました。
    私は引っ込み思案で人見知りでしたが、海の学校での遠泳大会では3キロを先頭で泳ぎ切り、水泳が得意な事で人の輪も広がり世界が広がったのを覚えています。
    今、映画衣裳デザイナーをしているのは、もちろん父黒澤明の影響が大ですが、成城学園では女子が幼稚園から大学まで私服なので、毎日何を着るかで衣服に興味を持ち、母も参加して今年はこんなのが流行るから等と、ファッションに夢中になって様々なテイストの洋服を着てみることが出来たことも、ひとつの要因であったと思います。
    今も尚仲良く成城学園らしく長閑に思いやり一杯の友人関係は、脳裏に浮かぶ学校時代の映像と、山盛りの思い出話で彩られて、コレがこの学校に通った事での1番の宝物になっています。

    森山 直太朗

    森山 直太朗 Naotaro Moriyama

    成城幼稚園、成城学園初等学校、中学校、高等学校 成城大学経済学部(1999年卒業)シンガーソングライター

    自由奔放のようでいて、結構厳しい経験もあった学生生活でした。
    よく覚えているのは、中学2年生の行事「山の学校」。槍ヶ岳のすごい断崖絶壁をよじ登っていって、子どもにこんな急な山を登らせて、学校的に大丈夫なんだろうかって心配したくらい。20キロメートルの強歩大会も印象深いですね。「競歩大会」なのに、歩いていると「走れ」って先生から叱られる。強歩という名のマラソン大会だった。
    高校生の頃、今もずっと楽曲を共作している、サッカー部の後輩の御徒町(凧さん)と親しくなって、彼が僕の家に入り浸るようになったんです。僕が大学1年生、御徒町が高校3年生の時に、彼が高校ののど自慢大会に出場するから曲を作りたいって言い出して二人で作ったのが『君色スイトピー』。それが初めて僕らが作った曲だった。ちなみに、彼はこの曲でのど自慢大会に優勝しました。
    後輩との出会いが曲作りの発端になったように、学生生活のなかで自然に目にやきつけてきた風景が、今も曲を作る上での一つの原風景になっています。大グラウンドの横の桜並木や初等科に抜けるまでにあるドーナツ池や銀杏並木...。そういう情景や、仲間や先生とのやりとり、ずっとこの時間が続いて欲しいと願った学生気分の抜けない感じが、創作のヒントや衝動につながっています。

    佐藤 良武

    佐藤 良武 Yoshitake Sato

    成城学園初等学校、中学校、高等学校、成城大学経済学部(1968年卒)株式会社ピットインミュージック代表取締役

    僕が初等学校に通っていた頃は、背広風の制服がありました。当時は珍しかったと思います。どちらかというと引っ込み思案なタイプだったけれど仙川や釣鐘池でザリガニとったり、相撲したり、楽しく遊んでいた記憶が多いですね。
    よく覚えているのは小学3年生のころかな。ある日、音楽の森先生に呼ばれて、音階の練習をさせられました。僕はボーイソプラノで音域が広かったんです。それで、NHKの東京児童合唱団のオーディションを受けることになりました。オーディション当日、本人は賞品でもらえるお菓子のことばかり気になってましたが(笑)、合格できて、それからは合唱団の活動で各地を回りました。授業をお休みすることもありましたが、成城の教育は「個性を伸ばす」ことだったので許されていたように思います。サトウハチロー先生にも認められて、NHKのラジオ番組に出ていたこともあるんですよ。思春期ということもあり、そのうち、恥ずかしくなってやめてしまいましたが。人生で一番スポットライトを浴びていた時期ですね、きっと(笑)。
    小さい頃から自動車好きだったので、早くから免許を取り大学では自動車部に入って活動していました。全国大会で好成績を収めたこともあります。
    自動車好きが高じて、そうした仲間が集まれる場がほしいと思い、大学2年の時に、現在の新宿「ピットイン」事務所の場所に喫茶店を作りました。ですが、ここは裏通りで車が入れず、車好きの客はまったく来ない。失敗でした。一方で、BGMにジャズをかけていたことがジャズ好きの間で有名になって、人が集まるようになったんです。それでジャズ専門のライブハウスをやろうと方向転換しました。
    思いもかけない流れで始まったピットインですが、エルヴィン・ジョーンズをはじめ渡辺貞夫や日野晧正、山下洋輔など超一流のミュージシャンに愛され、2015年に50周年を迎えることができました。今はピットイン・レーベルをつくりライブCDを発売するなど、新しい形でミュージシャンのサポートをしています。これからもジャズシーンを引っ張る存在として挑戦をしていきたいですね。

    新宿ピットイン
    ジャズのメッカといわれる新宿ピットイン。歴史を感じさせるポートレイトやサインが随所に飾られている。ジャズのメッカといわれる新宿ピットイン。歴史を感じさせるポートレイトやサインが随所に飾られている
    大法 まみ

    大法 まみ Mami Onori

    成城学園中学校、高等学校 成城大学文芸学部(1987年卒)整理収納アドバイザー1級認定講師/広告プランナー

    中学・高校時代の私は、キラキラ眩しい"成城ガールズ"とは見た目も素行もかけ離れた存在でした。ではどんな生徒だったかを一言でいうと、そうですね......、いまでいう「オタク系女子」の部類だったと自覚しています。
    中学時代は演劇と音楽と漫画、高校・大学は仏像。当時は「萌え♥」という言葉はありませんでしたが、確実に日々何かに真剣に「萌え」ている生徒だったと思います。
    音楽に熱中していた時期は、自作のサカモト教授の似顔絵をフレームに収め、机上に立てたまま授業を受けていました。成城の先生方の、「へぇ、自分で描いたの?」「教授をとても愛しているんだね!(笑)」等の寛大なご応対にはいまでも感謝しています。(誠にすみませんでした)
    そんなふうに、成城という楽園のなかで「個性」とか「多様性」とか呼ばれる何かを潰されることなく、珠玉の友人たちと共に自己チュウで自由三昧な季節を謳歌していたのでしょう。
    文章を書く、何かを創る、考える――自分の得手を生かして、卒業後は広告プランナーになりました。後年、最大の不得手「片付けられない病」を克服しようと整理学に熱中し、いつしか整理収納の講師にもなりました。どちらも、「やりたいことは、何でもとことんやっていいよ」という成城の気風が背中を押してくれた結果だと思っています。
    整理の講師も広告の仕事も大好きですが、私の人生はまだ途上です。10年後はいったい何に「萌え」ているのか? 成城エートスに育まれた自分が、これからどう変わりゆくのか楽しみです。

    これからの100年も、我が成城に栄光あれや はえあれや!

    2015年に全国のお母さんたちへのエールを込めて、「頭がよくなる整理術」を上梓。NPO法人ハウスキーピング協会公認・整理収納アドバイザー1級認定講師として、全国の学校や大学、企業等で講演などを手掛ける。2015年に全国のお母さんたちへのエールを込めて、「頭がよくなる整理術」を上梓。NPO法人ハウスキーピング協会公認・整理収納アドバイザー1級認定講師として、全国の学校や大学、企業等で講演などを手掛ける。
    宮島 和美

    宮島 和美 Kazuyoshi Miyajima

    成城大学文芸学部 (1973年卒)株式会社ファンケル代表取締役社長執行役員

    私が進学した当時は、学生運動の影響もあり大学封鎖やストのニュースをよく聞きました。成城大学でも多少その影響はありましたが、他と比べるとのんびりしたものだったと思います。ロックアウトしようにも、門がありませんしね(笑)。たまにストをやろうする連中がいれば「がんばれよ」なんて声をかけたりして。
    学科はマスコミュニケーション学科です。広告研究会に所属していたのですが、そこから派生してファッション研究会という会をつくって、週2回くらい活動していました。ゼミの石川弘義先生は社会心理学者として著名な方で、いろいろと勉強させていただきました。とても優しい先生ですが、点はからい(笑)。最終講義の時はキャンパスに行き、久しぶりにお会いできました。その5年後くらいにお亡くなりになって、非常に残念です。
    私がいたころは3号館までしかなくて、本当に小さい大学という印象。一方でキャンパスに馬場があり、街なかを馬が歩いている。今じゃ考えられないですよね。学生向けのお店も結構多く、民家を利用した喫茶店「おりひさ」(在学中に閉店)をはじめ、「栄華飯店」「葡萄屋」といった店に友人たちと集まっていました。「ネバ」という食堂では豚肉の「風味焼き」が有名で、三菱重工業サッカー部(現・浦和レッズ)の選手がよく食べに来ていましたね。成城石井もまだ全国展開する前で、あの店ではじめてグレープフルーツを食べたのを覚えています。
    なんだか食べてばかりですが(笑)、大学時代というと、あのこじんまりとしたキャンパスとともに、街の風景も一緒に思い出します。

    中澤 信

    中澤 信 Makoto Nakazawa

    成城大学法学部(1986年卒)株式会社バリアフリーカンパニー代表取締役社長

    成城大学には実は滑り止めで入ったのですが、入ってよかったと思いましたね。 学生数が少ないのに、民法の加藤一郎先生、憲法の戸松秀典先生、国際法の佐藤文夫先生などといった素晴らしい先生が沢山いらして「お得」でした。私も若かったせいか、先生に議論をふっかけることもありましたが(笑)、先生方には広い心で受けとめてもらいました。
    卒業後は久保田鉄工株式会社(現・株式会社クボタ)に入社しました。社会を支えるインフラに興味があったことと、初めに内定をもらったという縁で、この会社に決めました。入社してからは障害があったにもかかわらず、海外経理や法務、人事総務といった企業の基幹分野に携わりました。海外ビジネス経理を一人で担当したこともあり、幅広い経験ができましたね。一方で、これが自分にしかできないことなのか、と自問自答することも多くなりました。
    長野オリンピック・パラリンピックの頃、東京のバリアフリー観光情報についてまとめた、日英二カ国語の日本赤十字社の冊子「アクセッシブル東京」の編集作業をボランティアで手伝うことになりました。当時は、まだバリアフリーの概念も浸透しておらず情報そのものが少なく、そのうえ海外の方にも分かりやすいものにしなければとずいぶん苦心しました。ですが、この活動を通じて「これこそが自分にしかできないこと」、そして「これからの世の中に必要なことだ」と感じ、後にコンサルティングとして独立することに決めました。
    私は、生まれながら重度の障害である希少難病ベスレムミオパチー(筋肉疾患)でありながら、普通校で学んできました。2005年に脳内出血で右半身麻痺となり、車いすを使って生活をするようになりましたが、自身の社会での経験を活かしてさまざまな角度から社会変革していく活動をしています。メガバンクや携帯電話会社、大手旅行会社、世界的なIT企業等の様々な企業と協業し、誰もが生きやすくするためのコンサルティングを行うのが、今のわたしの役割です。
    2016年4月に「障害者差別解消法」が施行されました。日本はこの分野ではまだまだ遅れています。多くの企業や団体だけなく、私たち一人一人ができることがたくさんあります。成城学園もバリアフリーの視点を盛り込んで、学びやすい過ごしやすいキャンパスづくりを目指してほしいと思います。ぜひお手伝いさせていただきたいですね。

    企業の社内研修を運営することが多い企業の社内研修を運営することが多い
    小倉 淳

    小倉 淳 Jun Ogura

    アナウンサー、大学教授成城大学法学部(1981年卒)

    「きれいな女性が多いな」。男子校から成城大学に入った僕にとって、成城はとても華やかな印象でした。いろんな体育会系のサークルから誘われましたが、文体連オリエンテーションで見た放送部の女性の先輩に魅せられて、特に話すのが得意だったわけでもないのに(笑)入部しました(ちなみにその先輩が僕の妻です)。
    放送部の先輩から、TBSのアルバイトを紹介されたのが今の道に進むきっかけかな。当時、久米宏さんが司会の「ぴったし カン・カン」という視聴者参加の人気バラエティ番組があり、面白い出場者を求めて、全国各地で番組と同じ内容の予選会(オーディション)をしていました。予選会も司会していた久米さんがフリーになられて、代わりの司会者が必要となり、学生アルバイトから探すことに。誘われて軽い気持ちでオーディションを受けたら、「面白い」と言われて予選会司会者に抜擢され、それからは隔週末、地方予選会の司会をやっていました。視聴者の方は番組が好きで、応募してくれているので、例え本番に出られなかったとしても、予選会を楽しんで帰ってもらいたいと思って一生懸命司会して、終わるといつも汗だくでしたね。
    番組プロデューサーから「アナウンサーに向いているんじゃないか」と言われ、その気になってテレビ局のアナウンサー試験を受けました。TBSと抑えで(?)日テレを受けましたが、面接の日程から、日テレが先に内定をくれたので、そのまま日テレに(笑)。今では成城出身のアナウンサーも各局にいますが、テレビのキー局にアナウンサーで受かったのは僕が初めてみたいです。就職課に内定の報告にいったら、職員の方が全員立ちあがって振り返っていたことを今でも覚えています(笑)。
    去年、マスコミを目指す成城生たちをサポートしようと、マスコミ関係の成城卒業生のみなさんと「マスコミ成城会」を立ち上げました。その時、久しぶりにキャンパスを訪れたら、馬場もなくてずいぶん変わったなと思ったけど、やはり成城はいいですね。放送部の先輩から文化祭で1時間DJをやってみろって言われて、頑張って盛り上げたなぁなんて懐かしく学生時代を思い出しました。

    松澤 一之

    松澤 一之 Kazuyuki Matsuzawa

    俳優成城大学文芸学部(1978年卒)

    新国立劇場での公演を終え充実感の中、筆を執っています。もし私が、成城大学に入学していなかったら役者をしていなかったと思います。
    入学してすぐ、どのクラブに入部しようかと文連ハウスを歩いていると、2人の女性AさんとTさんに呼び止められました。香水の香りが大人を感じさせました。その魅力に負けて、入部したのが演劇部でした。そこにいる部員は個性的なメンバーばかりでした。大酒飲みのM君、映画の勉強のため慶応大学を辞めてまで入学したH君、湯河原老舗旅館「ふきや」の御曹司Y君、新劇オタクのK先輩といった部員に囲まれながら活動していました。
    そこで、「にんじん」、「どん底」の2本の芝居をやりました。夜遅くまで一生懸命練習する日々でした。1年後、新劇オタクのK先輩に誘われて文学座養成所を受けました。結果、2人とも入所する事が出来ました。その後、まだ東京大学の演劇サークルだった「夢の遊眠社」に入り、そこで将来日本を代表する演出家になる野田秀樹と出会いました。それからは成城大学で授業を受け、東京大学まで行って芝居をする毎日でした。
    人との出会いはおもしろいです。今でもこうして役者を続けられているのも、彼らとの出会いがあったからです。演劇部だった仲間たちが今でも芝居を観に来てくれます。昨年は皆で還暦旅行に行きました。次は65歳かな・・・楽しみです。
    彼らと出会えた成城大学に入学できた事を心より感謝しております。成城学園100周年、おめでとうございます。

    村松 健

    村松 健 Ken Muramatsu

    作曲家、ピアニスト、コンポーザー、三弦奏者成城大学 経済学部中退

    成城大学時代、休講になるとすぐにゼロイチ(001番教室)に向かいました。古いグランドピアノがあって、自由に弾くことができたんです。空いた時間があれば、そこでピアノを弾いていました。僕が演奏していることを友人たちも知っていて、なんとなく皆そこに集まって僕のピアノを聴いている......。この情景をよく覚えていますね。
    スポーツメーカーや鉄道会社のCMに採用された「春の野を行く」、保険会社で採用された「光のワルツ」といった曲をはじめ、自分の曲が多くの人に愛されているのはとてもうれしく思います。自分の思い出や目に浮かぶ風景、ある一瞬の感情などを基に曲を創るので、こんな個人的なものが共感されるのだろうかと思っていたのですが。
    大学時代にデビューしてから、ずっと東京で音楽活動を続けていましたが、「旬のままに音楽を届けたい」という気持ちが強くなり、2004年、以前からよく訪れていた奄美大島に拠点を移しました。島の人たちの文化や生活に歌が染み込んでいて、僕にとっては故郷のような土地なんです。
    通常の音楽活動のほか、三弦という楽器を自分で作り、演奏するという試みを続けています。最近創ったものがようやっと満足がいくレベルのものができ、アルバムも発表しました。もともとは伴奏楽器だった三弦の音がぐっとのびて、表現力が豊かになっています。これからも「村松健」の音楽を追求していきたいと思います。

    村松 健
    米良 はるか

    米良 はるか Haruka Mera

    READYFOR株式会社 代表取締役社長成城学園初等学校、中学校、高等学校(2006年卒)

     劇や合奏、遠泳、登山......思い出はたくさんありますが、特に印象に残っているのは、初等学校に放送委員の時の番組作り。
    放送室の機材で映像を撮って、編集して、毎週金曜日の朝の会で全校生徒が観る15分ほどの番組をゼロから作るんです。それがもうメチャクチャなんだけど楽しくて、ハマっていましたね。
     学校の放送だからって、大人の世界のルールは全然なくて。箱だけが与えられていて、番組の内容は好きなようにしていいよ、みたいな。私はあの頃、仲の良い友人とコンビを結成していたので、いつも2人で番組を作っていました。テレビの深夜番組を真似して、ブルーバックに顔だけが浮かび上がるような仕掛けで2人が登場するんです。それで、私たちコンビのことや、そのとき考えていることをただ話すだけ。それを強制的に見せられるみんなは、聞きたくないよって、感じですよね(笑)。そんなふうに、成城ってもともと自由な学校ですけど、特に作ることに対してはとことん自由でしたね。
     日本初のクラウドファウンディング「READYFOR」のサービスを立ち上げたことから、「子供の頃から何かを作るのが得意な子供だったんじゃないか」とよく聞かれるのですが、私は決して得意なほうじゃなかった。むしろ、表現が上手な友だちが周りにはたくさんいて、それを眩しくみていたぐらいですから。でも、本物の芸術にふれ、自分たちが表現したり発表したりする場をたくさん与えてくれた成城学園での教育が、今の自分の軸になっているのを感じます。

    髙嶋 政宏

    髙嶋 政宏 Masahiro Takashima

    俳優成城学園初等学校、中学校、高等学校、成城大学法学部(1988年卒)

    元々は、別の小学校に通っていたんですが、そこが男子のみ小学校止まりで、どうしても中学受験しなくてはいけない。毎日、学校が終わると塾通いという日々が続いたわけですが、両親がそれを見て、「人生、受験より大切な事がある!とにかく大学まである学校へ転校させたい!」と思ったらしいんです。そこへ、ちょうど成城学園初等学校に空きが出来たという話が。はっきり言って受験と同じくらい大変でしたが、何とか転入して、それから成城ライフが始まりました。最初は、あまりの自由な校風にびっくり!何ていうか、凄くアーティスティックというか、小学校からロックや映画に親しんでいた僕にとっては異常にしっくり来ましたね。もちろん勉強もしましたが、頑張った後に映画、演劇、ライブ三昧!転入して、すぐに1976年ロンドンでパンクムーブメントが産まれて、1977年に日本上陸。成城学園だからこそ、学校帰りに父に送ってもらって新宿のライブハウスや出来たばかりのラフォーレ原宿でパンクのイベントへ。当時は、ロンドンのセックスピストルズ、ストラングラーズ、ジャム、それにニューヨークのラモーンズなんかのフィルムコンサートをやってから、日本のパンクバンドのライブというパターンが多く、ランドセル背負った僕らにパンクスの、まぁ、今で言ったらゴスロリの元祖みたいなメイクしたお姉様たちが、「ボク、ここ座りなよ。」とか言ってくれて優しかったな。
    当時は、今みたいにマドンナとポールマッカートニーが同じ週にやって来たり、ジョニーデップが来たあとにトムクルーズ来るみたいな事は間違ってもなく、音楽でも俳優でも数少ない来日アーティストにジャンルや自分の好き嫌い関係なく、その機会を逃してなるものかと繰り出したものです。
    そんなライフスタイルにこれほどマッチした学校は、ありません。びっくりするのは学生時代に体験した事や覚えた事は今でも鮮明で、その頃に得た知識は、絶対に忘れないんですよね〜。何しろ、パソコンや書籍から得たものではなく、実際に生で体験してきたものですから。とにかく在校生のみんなには、自分の興味のある事には寸暇を惜しんで出かけて体験してもらいたいです。その為にも、まずは単位を先に取ること。自慢じゃないですが、僕は大学3年の時には単位オーバーしていましたから(自慢か)。しかし、バブルと相まって楽しかったな〜。何も産まれなかった80年代とか言う人もいますが、サブカルチャー、特にディスコからクラブに移り変わり、単に選曲して、喋りありのDJスタイルから藤原ヒロシさんを先駆者として始まった、自分で既存の曲を一旦、バラバラにしてミックスする手法。そして、グランドマスターフラッシュやメリーメルの曲中のスクラッチ、突然変異のように現れ中近東と西洋をボーダーレスにミックスしたコールドカットなどなど、今のクラブシーンの元となるようなものが確実に産まれました。日本でもバンドブーム、小劇場ブーム...当時はブームブームと言われていましたが、決してブームではなく、その頃の演出家たち、劇団健康を興したケラさん、大人計画の松尾スズキさん等々、僕らが学生時代スゲェな〜と思っていた方が、今や現代の巨匠となって大活躍しています。
    とにかく、皆さん、美学や、何かに固執して、俺は私は、こうあるべきだみたいなのは捨てて、どんどんトランスフォームして、首突っ込みたいものにガンガン首突っ込んでください。世の中に迎合していると言われようが優柔不断だと言われようが気にせず、好きな事をやってください。行動してください。
    お茶する、という淀んだ時間に時を割かないでください。あなた方の周りにある、数少ない宝石のような出逢いを逃さないでください。
    そんな素敵な瞬間をサポートしてくれる学舎。それが成城です。

    小泉 凡

    小泉 凡 Bon Koizumi

    島根県立大学短期大学部教授、小泉八雲記念館館長、焼津小泉八雲記念館名誉館長成城学園中学校、高等学校 成城大学・同大学院(1987年修了)

    中学校から入学してそれから大学院を修了するまでの約13年間、ずっと成城キャンパスで過ごしました。
    一番楽しかったのは大学時代ですね。先生たちの講義はどれもイキイキとして、とても刺激的でした。フィールドワークも楽しくて。子どものころから旅好きだったこともあり、自然と民俗学の道に進みました。
    大学院に進んでからは、「境界儀礼」に関する研究を進めていたのですが、どうも行き詰ってしまって・・・。ある時、友人が「これを翻訳してみたら」ってアメリカの論文のコピーを持ってきてくれたんです。ラフカディオ・ハーン、曾祖父の小泉八雲こそ民俗学者の草分けだという内容の論文でした。実は、それまではあえて小泉八雲のことを避けていたんです。七光りと言われるのも嫌だったし、身内の研究をするというのも気がすすまなくて。でもその時は、「これを読むのは君しかいない」と友人に言われて、素直に手にとることができました。そこからはもう夢中でしたね。縁があって、修了後は松江市で教鞭をとりながら、八雲の研究を続けました。
    今は、ラフカディオ・ハーンという人物、残した作品や思考を、社会資源として、地域や社会に生かしていこうと、さまざまな取り組みを進めています。例えば「怪談」をテーマにした「松江ゴーストツアー」という観光プランを企画したり。2008年から始めたのですが、とても人気があるんですよ。
    新しいことをする時、成城で学んだことが生かされているなと思います。自由な発想、まさに管理教育とは正反対の教育をしてもらいました。当時はありがた味も分からなかったけれど、自学自習の精神が根付いていて、先生たちもすごくイキイキとしていた。その先生たちの顔が人生を楽しむ大人の姿として、しっかり焼きついていたということが、僕にとっては良かったんですね。だから自分も今、「忙しい!どうしよう」と言いながらも、人生を楽しめているのだと思います。

    小泉 凡 2016.9
    2016年7月にリニューアルオープンした小泉八雲記念館。展示の解説はすべて小泉さんによるもの2016年7月にリニューアルオープンした小泉八雲記念館。展示の解説はすべて小泉さんによるもの
    立嶋 智

    立嶋 智 Satoshi Tateshima

    脳神経外科医、カリフォルニア大学 UCLAメディカルセンター 脳血管内治療部 教授成城学園中学校、高等学校 (1989年卒)

    小学校2年生の時に腹膜炎と急性出血性腸炎を患い、近所の病院で死の宣告を受けました。
    最後の望みを託し、近くの大学病院に転院して、長期入院の末に一命をとりとめることができました。このことは自分の進路に大きな影響を与えました。
    中学から成城学園に進みましたが、父が教員、母は元職員という環境だったので、自然な流れでしたね。弟も、もちろん成城。成城一家です。
    中高を通してスキーに夢中で、加えて高校ではハードロックバンドを結成しました。250ccのバイクに乗って深夜のスタジオに向かい、バンド仲間と2時間ほど練習、その後は24時間営業のファミレスで夜明けまでバカ話をして。楽しかったですね。
    高校3年の夏休みは予備校夏期講習などそっちのけで、せっせと自動車教習所に通っていました。高校1年の頃から医学部受験を考えていましたが、いわゆる"大学受験生"とはかけ離れた学生生活を送っていました。
    もちろん遊び回るだけではなく、そこそこ勉強もしていました。好きだった科目は生物。高校1年生の1学期、生物の期末試験で好成績を収めたので、先生から廃棄処分寸前の単眼顕微鏡をプレゼントされ、すごく嬉しかったのを覚えています。夏休みに入ると、夢中で生き物を観察しました。興味を示せば、先生も授業の範疇を超えて応えてくれる。そんな自由な雰囲気が成城にはありましたね。
    高校卒業後は慈恵医大医学部に進学しました。小学校で大病を患った時の転院先が慈恵医大第三病院だったんです。そして学生時代、キャリアを決定づける出来事がありました。臨床医学の講義で、イギリスとカナダで診療に携わった教授の話が非常に刺激的で、世界を相手にした広い視野に陶酔しました。その影響をうけて、慈恵医大脳神経外科に入局後、米国カリフォルニア州のUCLAに留学する機会をもらいました。1998年に渡米し、その時は脳血管障害の研究生活が中心でした。その後米国の医師免許を取得し、2001年から診療に携わるようになりました。
    はじめは苦労したこともありましたが、成城らしい自由なものの考え方、生き方のセンス、人懐っこさや社交性の高さは、国際社会に出た時に大きな強みになる。今こうしてアメリカで働く自分の礎は、中高と成城の友と過ごした時に培ったのではないかと思います。
    これからの夢は、熱意を持って渡米してくる日本人留学生を支援する財団を設立すること。自分で選んだ道をまっすぐ進む熱い若者を応援できる環境を整えたいですね。

    手術中
    リラックス
    小澤 征爾

    小澤 征爾 Seiji Ozawa

    指揮者成城学園中学校(1951年卒)

    僕の人生の中で一番楽しかったのは、成城の中学校の3年間です。成城池のとなりの校舎で中学生活が始まった。そこで僕の音楽人生もはじまったんじゃないかって思う。
    成城にきたのは、ピアノがやりたかったから。そのころは男がピアノをやるなんて軟弱だ、みたいな雰囲気があったけど、成城はそんなところが全然なくて、本当に自由でした。
    中学校時代に、僕は、音楽的に驚く経験を3つしまして。1つめが初めてのオーケストラ体験。日比谷公会堂ではじめてオーケストラの演奏を聴きました。2つめがイグナチオ教会で聴いたパイプオルガンの低音。そして最後が、成城の「コーロ・カステロ」という男だけのコーラスグループ。
    音楽家になろうと思って成城に来たのに、ラグビーをやって怪我をして、ピアノがダメになって、もちろんとても悲しい出来事ではあったけど、それも含めて全部楽しかったですね。ピアノから指揮者へ転向するとなって、先生や仲間、ラグビー部のメンバー、周りにいる人がみんな人情味のあるアドバイスをしてくれるんです。「やれよ!やれよ!やりたいならやったらいいじゃないか!」って。なんでもポジティブにとらえる成城の精神はとても僕にあっていた。
    ラグビーの練習はとてもハードで、目の前が黄色になってもまだ走らされた。僕がやっていた当時は選手交代がなくて、一度試合に出たら終わりまでやらないといけない。一人抜けたら、少ない人数で戦わなきゃいけないから。
    成城のポジティブな気持ちとラグビーで経験したギリギリのところでも頑張る粘り、この両方が僕にとってはとても大切なものになっている。

    石塚 弘章

    石塚 弘章 Hiroaki Ishizuka

    ラグビー選手 ヤマハ発動機ジュビロ成城学園中学校、高等学校 成城大学経済学部(2016年卒)

     小学校6年間ずっとサッカーをやっていたので、成城学園中学校に入学したら、もちろんサッカー部に入るつもりでいました。ですが、初等学校からラグビーをやっていたクラスの友人に、「ラグビー部に来てみない?」と声をかけられ、実際に練習に参加してみたら思いのほか楽しくて。あっさりとラグビー部に入部することを決めました(笑)。それからずっとラグビーに夢中で、どんなに練習が厳しくても「辞めたい」と思ったことはなかったですね。
     大学生のときには、副将とゲームキャプテンの二役を任されるように。試合ではゲームキャプテンとしてチームを引っ張る軸となり、練習では一番厳しくチームを引き締める存在になることをいつも心がけていました。
     今でも悔しいのは、Aグループ昇格を目指して頑張ってきたのに、最後の年になる4年生の10月に大きな怪我をしてしまったこと。試合に出られなくとも、松葉杖を突いてグランドに立ち、皆に指示を出していましたが、なにか響いてないような、雰囲気が暗いような印象がありました。
     それまで良い調子だったのが、負けが続くようになって、1部リーグへの入替戦出場の機会を逃してしまう結果に......。思い出すたびに、あのときどうすることもできない自分の無力さに腹が立ちます。
     もう一つの大きな出来事は、大学2年生の3月に、ラグビー7人制日本代表の合宿に練習生として参加したことです。合宿にはウェブサイトやテレビで見たスター選手たちがいて、「なんで自分がここにいるんだ?」という驚きと、焦りのような気持ちがあり、緊張から思ったようにアピールができませんでした。
     ですがこの時、トップリーガーとともに過ごしたことで、自分の意識も大きく変わりました。世界で戦うためには、技術はもちろんですが、「勝ちたい」「強くなりたい」という意識を強く持つことが何より重要で、トップリーガーの勝負に対する強い意識には影響を受けましたし、自分もチームに良い影響を与えられる存在になろうと思いました。振り返ってみると、あの合宿がトップリーガーになりたいと思うきっかけになったのかもしれません。
     大学を卒業して、2016年からヤマハ発動機ジュビロに入団しました。まずはこのチームでレギュラーの座をつかみたい。目の前のことに着実に取り組んでいき、日本代表になって2019年ラグビーW杯に出場することを目指しています。チャンスがあればまた7人制日本代表としてプレーし、2020年に開催する東京オリンピック・パラリンピックも狙いたいですね。

    ヤマハ発動機ジュビロのルーキーとして活躍ヤマハ発動機ジュビロのルーキーとして活躍
    成城大学時代は、副将かつゲームキャプテンとしてチームをけん引した成城大学時代は、副将かつゲームキャプテンとしてチームをけん引した
    岩崎 宏美

    岩崎 宏美 Hiromi Iwasaki

    歌手成城学園初等学校、中学校(1974年卒)

    「元気すぎる」と言われるくらい活発な女の子でした。体を動かすことも好きでしたが、歌うことも大好き。初等学校のころから歌のレッスンを始めて、自分が好きなことをのびのびとやっていました。先生方も温かくて、生徒のやりたいことを尊重してくれる成城の教育は、本当に私にあっていたと思います。
    中学時代、数学のカツ先生(高橋克夫先生)は数学が苦手だった私に「岩崎はこの3年間全く数学と縁がなかったけど、高校の3年間もそのぐらい適当にがんばりなさい」と卒業の時に言ってくれました。「"適当に"って?」と思いましたが、苦手な教科で悩むよりも、得意なことを伸ばしなさいってことだと解釈して納得しています(笑)。
    成城は芸術や芸能に触れる機会をたくさん与えてくれました。小澤征爾さんが率いるオーケストラや中村紘子さんの演奏会が講堂で開かれた際には、リハーサルを見学させてもらったり...。最高の舞台を創るために、プロの音楽家はこんなに真剣なんだと分かって、とても感動しました。何年か前に、小澤さんのコンサートを観にいったとき、楽屋におじゃましてそのことをお話したら「覚えていてくれて、すごくうれしいよ」って言ってくださったのも大切な思い出になっています。
    体育会系の行事もとても充実しているのも、成城のいいところです。とはいえ当時は、友達と文句言いながらの参加でしたが(笑)。でも気づいたら夢中になってやっていました。「山の学校」も「海の学校」も、絶対無理!と思っても、皆と一緒だといつのまにか成し遂げられるから不思議ですね。クラス替えがないこともあって、団結力はすごかった!
    中学3年生のときに出演したテレビ番組がきっかけで、歌手デビューの夢がかない、それから約40年間、いろいろな歌との出会いがありました。歌の世界を表現するうえでも、多感な時期に本物を見たこと経験したことは、何よりの財産だと思います。

    2015年、歌手デビュー40周年を記念したコンサートを開催2015年、歌手デビュー40周年を記念したコンサートを開催
    江藤 尚志

    江藤 尚志 Takashi Eto

    東日本旅客鉄道株式会社 取締役東京駅長成城大学経済学部(1981年卒)

    九州の福岡県から大学進学のために上京してきました。いわゆる"九州男児"ですから、成城の雰囲気からするとちょっと変わったタイプだったかもしれません。
    4月に入学生を対象にしたフレッシュマンキャンプがあるのですが、私はあえてフンドシをつけていきました。みんな面白がってくれて、とても盛り上がり、あっという間に打ち解けましたね。浪人生活も経験し同期より年上ということもあり、自然とリーダー的なふるまいをすることも多かったように思います。
    大学時代はひたすら合気道に打ち込んでいました。毎日の練習はとにかく過酷でしたが、社会性や忍耐力が磨かれました。他大学との交流も盛んで、人とのつながりを大きく広げることができたのは、その後の自分のキャリアを振り返っても、大きな財産になりました。
    合気道のほかに、歌舞伎研究会にも在籍していたので、文化祭など行事の際はとても忙しかったですね。その分、学業には熱心でなかったかもしれませんが(笑)。
    私は「縁」を大切にしています。多くの良い出会いがあったからこそ、今の私があると感じています。卒業後、国鉄へ入ったのも、合気道で知り合った先輩の誘いがあったからです。民営化実現のために粉骨砕身頑張っている先輩に触発され、少しでも貢献したいと思いました。JRになってからも、さまざまな苦労がありましたが、会社を、社員を守らなくてはいけないという気持ちでこれまでやってきました。2014年、東京駅が100周年を迎える年に東京駅長に就任しました。そのときに思い浮かんだのは、「緊褌(きんこん)一番」。気を引き締め、覚悟をもって取り組もうと。そう、フンドシです(笑)。

    学生時代は合気道に邁進。大学の中庭で行われた新入生勧誘会で技を披露。右側が江藤さん学生時代は合気道に邁進。大学の中庭で行われた新入生勧誘会で技を披露。右側が江藤さん
    歌舞伎研究会でも活躍。「与話情浮名横櫛」(「お富与三郎」)で「蝙蝠安」(写真左側)を演じる歌舞伎研究会でも活躍。「与話情浮名横櫛」(「お富与三郎」)で「蝙蝠安」(写真左側)を演じる
    山口 もえ

    山口 もえ Moe Yamaguchi

    タレント成城学園中学校、高等学校 成城大学法学部(2000年卒)

    小学6年生のとき、中学受験の参考に、成城学園の文化祭を見にいきました。生徒と先生の垣根がなくて、1つのキャンパスに小学生から大学生までいて、わきあいあいとしていた。その雰囲気がよくて、大学までここで学びたいと思ったんです。
    小さいころからクラシックバレエを続けていたので、中学では週一回土曜日だけ活動する合唱部に入りました。顧問の牛山先生の趣味だと思うのですが、中学生なのに、松田聖子さんの「瑠璃色の地球」や小林明子さんの「恋に落ちて」といった大人の恋の歌を歌っていました(笑)。女子ばかりで人数も少なかったせいか、先輩後輩関係なく仲がよかったですね。
    高校生になってからクラシックバレエをやめたのですが、でも何かダンスがしたいと思っていました。ある日「ダンスレッスン無料」の張り紙を見て、無料に惹かれて申し込んだら、ダンス教室ではなくて今のプロダクションだったんです。たまたまその時社長がいて「芸能活動をするかどうかすぐに決めなくてよいから、まずは気軽にレッスンにきてみたら」と言われて、レッスンに通うようになりました。
    そのうちCMなどに出るようになって。クラス担任の藤丸先生は「CM見たよ」「あれはどうやって撮っているの?」と自然な感じで応援してくれました。高校時代、放課後に先生方と話す時間がとにかく大好きだったんですよね。授業では「この部分を後で質問しよう!!」って理由をつくっては、先生を訪ねていました。私の時代は放課後になると、先生と話したくて、皆、列をつくって待っていたくらい。網干先生、植松先生、高嶋先生......すぐにお顔を思い出します。勉強もそうですが、勉強以外にもいろいろなことを教えてもらったり、なんでもない話でも聞いてもらえるのがうれしかったです。
    成城で学んだのは自由だからこそ、自分で選択したことには責任をもつということ。"今"の成城生にはいろいろなことに挑戦できる環境であるからこそ、自分で自分の道を選んで責任をもって進んでもらいたいと思います。

    岡部 信彦

    岡部 信彦 Nobuhiko Okabe

    川崎市健康安全研究所 所長、慈恵医大小児科客員教授、元国立感染症研究所 感染症情報センター センター長成城学園初等学校、中学校、高等学校(1965年卒)

     初等学校はいい時でした。遊んで劇をして遠足に行って毎月クラスで誕生会をやって、たまに勉強して(笑)。勉強も自分のやり方で進める「自学自習」だったので、楽しかったですね。小さいころは身体が弱く、学校を半年くらい休んだこともありました。それでも自学自習だからついていけて、学年を落ちずに済んだのではと思います。
    僕たちの子ども時代は野球や相撲が大人気。ですが僕は本が好きで運動をやることは得意ではなく、野球も相撲も苦手でした。ある時、父親がサッカーを観につれてってくれて、そこでサッカーに興味を持ち、中学高校と(大学も)サッカー部でした。当時サッカーはマイナースポーツ。でも「人と違うことをすればなんとかなる」ことを身に付けたように思います。ちなみに、僕のポジションはゴールキーパ。これも皆がやりたがるポジションではありません。
     父親は小児科の開業医で、初等科の校医も長くしていました。両親とも成城出身だったこともあって、とても熱心にやっていました。自分も子どもが好きでしたし、大学は医学部、専門は小児科と、反抗しながらも結局自然と父親と似たような道をたどることになりました。しかし開業の道はすすまず、慈恵医大小児科から国立感染症研究所感染症情報センター勤務になりました。そこで取り組んだ一つは「はしか」の予防対策です。日本は先進国の中でも「はしか」の患者数が多く、はしかを著しく少なくした国々からは「はしかも輸出する国」といわれたほどでした。15年前の患者数は約20~30万人でしたが、5年ほど前からがくんと減ってきて、2016年8月現在の患者数は20人程度。なんといっても多くの人がきちんとワクチンを受けてくれるようになったためで、粘り強く取り組んできたかいがありました。
     昔と比べて、大人も子どももなんだかきゅうくつな時代になったと思います。なにもかも昔のままとはいきませんが、もっと子どもたちがのびのびとできたらいい。医学的なことだけではなく、子どもたちが過ごしやすい環境づくりを手伝えたらなと思います。

    黒田 知永子

    黒田 知永子 Chieko Kuroda

    モデル成城学園高等学校 成城短期大学(1982年卒)

    「JJ」のモデルを始めることになったのは、短大の頃。雑誌のスナップを見たモデルクラブの方に誘われたのがきっかけです。とは言え学校にはきちんと通っていたしスキーの同好会にも所属していたので合宿にも参加していました。撮影の時にゴーグルの跡がうっすら。。。なんてこともありました(笑)
    一旦は辞めていたのですが30代で「VERY」創刊の時に声をかけて頂いて正直「できるのかなぁ」と不安ながらも復帰。幸運なことに次の「STORY」「eclat」と自然と活躍の場が広がっていった感じです。 少し前までは、いつまで仕事をするのかな、できるのかな、と思っていたのですが、今は自分のスタイルを保ちながらなるべく長く仕事に関わっていられたらいいなと考えるようになりました。
    成城は高校からですが、人も空間もとにかく明るく楽しかった。中学はいなかったのに、「何組だった?」と聞かれたことも。馴染んでいたのかな。部活、文化祭、校内大会、高校時代が楽しかった、、、と思えることそのものが幸せで良い学校で過ごしたんだなと思います。

    宮地 藤雄

    宮地 藤雄 Fujio Miyachi

    トレイルランナー成城学園初等学校、中学校、高等学校 成城大学文芸学部(2001年卒)

    僕はトレイルランナーとして、日本をはじめ、年間4~5回は海外の国際大会にも参加しています。
    ですから小学校のころは、大人しくてスポーツが苦手だったと聞くと、みんな驚きますね。太っていたこともあって体育は大嫌い。中学生の強歩大会は後ろから数えて1、2番目でした。でも3年生のとき、「このまま終わるのは嫌だな」と一念発起して、大会の1~2カ月前から走り込みをやってみたら、順位が真ん中くらいまで上がったんです。この経験は「やればできるんだ!」と大きな自信になりました。
    とはいえ急にスポーツ少年になるわけではなく、学生生活は生徒会の活動が中心でした。イベントや行事を企画して皆に喜んでもらうのが好きだったんです。成城のよいところは、やはり個性尊重。大人しいタイプの僕でも、それも個性だと認めてくれて、それぞれが得意なこと好きなことを頑張ればいいという雰囲気があった。そんな成城が好きでずっとここにいたくて、教師の道を目指すようになりました。大学4年の教育実習で中学校の陸上部のコーチになり、大学を卒業しても続けていました。
    トレイルランニングをはじめたきっかけは、1枚のチラシです。27歳でした。御嶽山で行われる第1回大会の告知なのですが、第1回なので写真がない。チラシにはマレーシアのキナバル山(4095メートルの岩山)が載っていました。それを見て「ここで走ってみたい」と出場を決めたんです。もちろん、レース会場は写真の景色とは違っていて、しかも大会前の注意で「滑落に注意してください」と言われて、これはすごいところにきちゃったなと(笑)。レースはなんとか完走しましたが、あのチラシの景色が忘れられず、その年の10月にキナバル山で行われるレースに参加しました。山頂付近では雪が降るなど大変な環境で「早く走り終えないと死んでしまう!」と、とにかく必死でしたが、それが面白かったんですよね。
    30歳のときに「プロのトレイルランナー」として活動することを決め、多くの方の協力を得ながら、様々な大会に参加しています。トレイルランニングをもっと広めたくて、大会を主催する活動も積極的に進めています。どれも学生時代にやっていたこととつながっていて、自分には成城があっていたんだなと納得しています。

    2016年7月にスロヴェニアで開催されたレースにて。サポーターフラッグとともに。2016年7月にスロヴェニアで開催されたレースにて。サポーターフラッグとともに
    トレイルランニングは舗装されていない山の中などの険しい道を走る。高度に慣れるために富士山で訓練することも多い。写真は標高2700mの宝永山付近トレイルランニングは舗装されていない山の中などの険しい道を走る。高度に慣れるために富士山で訓練することも多い。写真は標高2700mの宝永山付近
    小澤 征悦

    小澤 征悦 Yukiyoshi Ozawa

    俳優成城幼稚園 成城学園初等学校、中学校、高等学校 成城大学文芸学部(1998年卒)

    初等学校1、2年のときの担任の先生がチンゲン先生で、この頃のことは特によく覚えていますね(武田先生だから、武田イコール信玄で"チンゲン"というニックネームでした)。
    あるとき、一人の子をいじめている男の子がいて、やめさせようとして喧嘩になったんです。そこでチンゲンが「何やってるんだ」と止めにはいってきて、てっきり喧嘩したことを怒られるのかと思ったら、まずは「教室でやるな」。そして僕と喧嘩していた子2人は校庭に連れていかれて「喧嘩するならここでやれ」って(笑)。そう言われても、できるものじゃないですよね。すると「喧嘩しないのか。そうか。じゃあ仲直りだ」って(笑)。
    もう一つ印象的なエピソードがあるんです。授業の後、僕と数名が「補習があるから放課後残るように」と言われたんです。"ああ、嫌だなぁ"と思ってたら、100円玉を何枚か渡されて、「これでアイスを買ってこい。その代わり、チンゲンの分も買ってくるんだぞ」。これは、当時、初等学校の裏手にあった駄菓子屋さんでアイスを買って、誰にも見つからないように戻ってこなきゃいけない、という「ミッション」なんですよ。子どもにしてみたら大冒険です。先生に言われたからにはやりとげなきゃいけない、でも買い食いって一応いけないことだから見つかったらいけないし、でも先生の命令だしって。ものすごい緊張感でした。あの日食べたアイスの味は忘れられないな。でもそれから逆に隠れて買い食いすることがなくなったような気がします(笑)。

    秋葉 生白

    秋葉 生白 Seihaku Akiba

    書家成城大学文芸学部(1978年卒)

     春の頃、成城の駅から大学まで桜の花びらを踏んで歩くたびに、いつも心が浄化されていく様な気持ちになったものです。大学の図書館には毎日のように通っていましたが、帰りに友達と珈琲を飲み、語り、過ごす時間がとても好きでした。
     恩師の西山松之助先生からは江戸文化の粋と華やかさについて教えを頂きました。古典と前衛は表裏一体であり不易流行の精神もゼミの中で学びました。
     先生はもちろん奥様である佐賀錦の人間国宝古賀フミ先生からも、私の個展の折などいつもあたたかい励ましを頂戴しました。
     私は、書は「魂の救済」のためにあると信じています。奇を衒わず、古典を基礎に素直に作品にむかうことが大切です。私が清澄な品格を大切に今までの書の世界にない新しい仕事が出来たのは、成城から学んだ「とらわれない自由なチカラ」であると思います。教育とは学問を教えること以上に道を教えることです。成城の道は私の感性にピッタリ合っていました。隨縁という言葉がありますが、成城からたくさんの御縁をいただき今日もその御縁に生かされていることに掌を合わせています。
     日本の伝統と精神性を世界の人々に理解していただくために、私が創った禅をモチーフとしたアーティストルーム「禅ルーム」がパークホテル東京31階にあります。禅は思想や考え方ではなく宇宙の果てまでも届く大いなる波動を持っています。
     日本の美しさと崇高さを、祈りの書を通して表現出来ればと願う毎日です。

    パークホテル東京31Fの「禅ルーム」パークホテル東京31Fの「禅ルーム」
    書き上げる瞬間。まさに無の境地で一気に筆を進める書き上げる瞬間。まさに無の境地で一気に筆を進める
    成瀬 正

    成瀬 正 Tadashi Naruse

    トラン・ブルー オーナーシェフ成城大学経済学部(1983年)

    俗にいう女子大生ブームの頃、大学にはきれいな女の子たちが本当に沢山いた。学食では部活ごとに定位置を陣取り、スパゲッティ(パスタ、ではなかった)を食べてから、成城池を囲む文連坂を下り、水色の体連橋を渡り、体連ハウスのあちこちで友人に声をかけ、先輩に挨拶しながら剣道部の部室へ向かう。厳しい練習を終え、他の部の連中や管理人のおじさんと喋り、炭酸を飲んでから、また部のみんなと橋を渡り、坂を上って帰る(そして飲みに行く)。あの頃"ただの日常"だった風景は、時が経ち、何よりも懐かしく、いとおしいものとなった。成城での4年間は、おもしろいヤツらとの出会いの宝庫であり、部活は中途半端だらけの自分が、辛くてもやり通した初めての事だったと思う。
    大きな借金と共に継いだ実家のパン工場とトラン・ブルーという店は、「クープ・デュ・モンド」(パンの世界大会)やNHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」に出た頃からなんとか安定し、現在は海外へ技術指導に行くことも多くなった。
    これからも若いスタッフ達とワイワイ言いながら、パンを焼き続ける。とびっきり極上の、おいしいパンを目指して。一緒に文連坂を上った相棒(妻)が、これからも力を貸してくれるだろう。

    1989年にオープンしたトラン・ブルー。休日には開店前に整理券が配られることも1989年にオープンしたトラン・ブルー。休日には開店前に整理券が配られることも
    90種類ものパンが並ぶ。季節の食材を使ったデニッシュが特に人気90種類ものパンが並ぶ。季節の食材を使ったデニッシュが特に人気
    田所 浩志

    田所 浩志 Koji Tadokoro

    株式会社大学通信 代表取締役社長成城幼稚園 成城学園初等学校、中学校、高等学校 成城大学法学部(1997年卒)

    中学・高校・大学とバスケットボール部に所属していて、大学では主将を務めました。 大学時代は部室か学食に集まることが多かったですね。ここに行けば必ず誰かがいて、一緒に過ごしていました。学食の食券側のテーブルがバスケット部、となりはラグビー部だったことを覚えています。
    教育分野に携わっている仕事柄、卒業して20年経った今でも成城学園と関わりがあります。多い時には週3回、キャンパスを訪れることも。
    いろんな学校を回って分かったのは、ワンキャンパスの良さでしょうか。
    大学も学部や学年でキャンパスが分かれているところがほとんどですから、幼稚園から大学・大学院まで、さまざまな年代の子どもたちが同じキャンパス内を歩いているという、自分にとって当たり前だった成城学園の景色は、非常に珍しいものであると気づきました。
    馬場の移転、7号館竣工、第2グラウンド、最近では中高一貫新校舎と、キャンパスの移り変わりを見てきました。一方で、先生と生徒、先輩と後輩の仲の良さなど、変わらない部分もずっと持ち続けていると感じています。
    「オール成城」のバスケット祭では、サポート役で参加しています。集まったOBや同窓生、後輩たちが垣根なく仲良くしている様子をみると、ここで学んでよかったとしみじみ思います。キャンパスの狭さが、人と人との距離の近さにつながっている。あの距離感が大きな魅力なのではないかと思いますね。

    中学3年生の文化祭「のど自慢大会」
田所さん(中央)、小澤征悦さん(右)讃岐耕太郎さん(左)の3人でレイ・チャールズの「エリ―マイ・ラブ」を熱唱し、見事優勝中学3年生の文化祭「のど自慢大会」
    田所さん(中央)、小澤征悦さん(右)讃岐耕太郎さん(左)の3人でレイ・チャールズの「エリ―マイ・ラブ」を熱唱し、見事優勝
    中村 義洋

    中村 義洋 Yoshihiro Nakamura

    映画監督成城大学文芸学部(1994年卒)

    高校3年生のとき、映画『マルサの女』をテレビ放送で見て、あまりのおもしろさに衝撃をうけたんです。映画を100回くらい見て、それに加えて映画の撮影日記本『「マルサの女」日記』を読んで。当時、映画のメイキングを見せていたのは伊丹十三さんくらいしかいなくて珍しかったんですよね。それで、映画をつくる仕事がしたいと、願書を出す頃には芸術学科や映画学科といった学科ばかり選んでいました。
    大学入学後はもちろん映画研究部に入り、8㎜で映画製作をしていました。3年で部長になったら部室の一番奥のお誕生席に陣取ってました。えらそうに(笑)。
    当時は、何としても映画監督になりたくて、学生のうちに賞をとって名を売りたいなんて考えてた。実際に賞をとったこともあったんですが、今度は狙いすぎて空回りする。そんなことの繰り返しでした。ある時、「もういい。好きなことだけやろう」と振りきれて。そして、大学の近くにある中華料理屋「林華苑」を借りて撮影した『五月雨厨房』がぴあのフィルムフェスティバルで準グランプリをとったんです。
    自分が何を面白いと感じるかを大切にすること、自分の感覚に自信を持つこと。それを大学時代に学んだように思います。あの頃を思い出すと、青くて恥ずかしいんですけどね。

    成瀬 廉二

    成瀬 廉二 Renji Naruse

    元 南極越冬隊員、南極夏隊長 NPO法人 氷河・雪氷圏環境研究舎 代表成城学園初等学校、中学校、高等学校(1961年卒)

     第1次南極観測隊がオングル島に昭和基地を建設し、11名の隊員が1年間越冬することが決まった1957年2月頃、私は成城学園中学校の2年生だった。当時の日本にとっては、南極で起こる毎日の出来事はとても新鮮でニュース性があり、ほぼ連日ラジオや新聞で報じられ、南極関連の記事だけは隈なく読んでいたように思う。
     高校卒業後1年のブランクを経て北海道へ渡った。北大を志望した理由の一つは、南極か北極に行きたい、北海道ならその実現に近そう、という単純なものであった。そして大学4年生になったとき、雪と氷の研究で南極観測隊へ参加しよう、という希望が明確となり、何をするときも常にそれが目標に据えられていたようだ。
     大学院1年生のとき南米パタゴニア氷河探検隊に参加し、帰国後、めでたく第10次南極越冬隊員に選ばれ、1968年11月晴海港から出国した。25歳、隊の中で最年少クラスだった。越冬中の最大任務は、約100日間の雪上車による雪氷調査旅行であった。-30℃以下、風速10m/s以上のときの野外観測は過酷であったが、未知の地域で世界初のデータを得る充実感は苦労を忘れさせる。
     第10次隊から帰国して2年後、ふたたび第14次越冬隊員(1972-74年)として南極へ向かった。その後、夏隊長(1992-93年)を務め、結局、南極の雪氷と山岳地の氷河が、私のライフワークとなった。
     このように述べてくると、中学時代に抱いた夢を着実に実現させてきた、と思われるかもしれない。いや、実際はそんなに「がんばった」記憶はなく、きわめて自然体で成りゆきに委ねていたように思う。成城時代の勉強というよりは、初等学校の「散歩」の時間や下校時の「小探検」、中・高時代の生徒会と課外活動の経験がさまざまな局面で私を推し進めたような感がする。

    南極やまと山脈ベースキャンプ(1970年1月2日)。後列右端が筆者南極やまと山脈ベースキャンプ(1970年1月2日)。後列右端が筆者
    パタゴニア(アルゼンチン)、ウプサラ氷河にてパタゴニア(アルゼンチン)、ウプサラ氷河にて
    井上 道義

    井上 道義 Michiyoshi Inoue

    指揮者、ピアニスト成城幼稚園、成城学園初等学校、中学校(1962年卒)、高等学校中退

    成城学園に旬があったとしたら今は何なんだろうか?
    僕の先輩は自分の時代を一番と思い、僕もそう思い、後輩たちもどうやらそう思っている。時代というそれぞれの時間軸。 子供は、死と違って選ぶこともなく、ある環境に生まれ、親の希望や夢とともに、子供自身が選ぶことなくその後のすべてを形作る、「子供」という時代。
    幼稚園、小学校、中学校(......たぶんそのころになれば自分で選ぶことも可能だろうが) 恐ろしい!! しかし、「運命」とはそんなもの。
    僕自身14才の時に「指揮者になって一生、飽きない何かを追いかけたい、世界に羽ばたきたい」と感じたとき。どうしても失いたくないものがあった。
    それは「それまでの自分」。
    今のまま真っ直ぐ生きたい、と恥ずかしいほど自己肯定的だった。そんな奴はあまり居ないようだ。しかし、「自分が正しいと思う自分で生きる」ことは、恐ろしく難しいことを長い人生は突き付けた。
    世界が変わる、日本が変わる、メディアが変わる、景色が変わる、相手が変わる、自分の細胞も変わる。
    でも、なぜか今ここで、この文を書いているイノウエミチヨシは、小学校1年の時についたあだ名「ミッキー」そのまんまで、付け加えられたのは......勉強で学んだ多くの知恵、知識、方法、だけだ。
    ああそうそう、取っ組み合いのけんかは6年の時に雑木林の中で殴り合いをやり、自分も相手もそれ以上やってはいけない事を本能で知った。戦後間もなくの成城は、素晴らしい贈り物をくれた。お散歩の時間、劇の時間、泥の上での運動会、音楽の時間、いろんな大人としての先生という存在。すべてに鍵がかかっていなかった!知識は人を通してやってきて、スマートフォーンからではなかった。パスワードは人だった。
    今、日本中の学校に澤柳精神のようなものはすっかり染み出しているから今の成城に特に特徴を感じない。僕が新創立学長だったら自分が高校・大学で学んだ、仙川の桐朋学園音楽科、演劇科と合併し、ダンス学校を併設し、小学校から政治学を学ばせ、同時に宇宙科学と、量子物理学の先端的な先生を招き、多くの英語での授業を行い、いまの大学は廃止するな。

    田中 朝

    田中 朝 Asa Tanaka

    松山バレエ団 バレリーナ成城大学文芸学部(2012年卒)

    4歳の時、突然クラシックバレエとの邂逅がありました。いとこのバレエをみて、「私もやる!」と両親に懇願しました。美しい衣裳を着てトウシューズを履いてつま先立ちで踊る姿があまりにまぶしくて、この世のものとは思えませんでした。この輝く世界にいるというだけでうれしく、鳥肌が常に立っていたのを覚えています。
    成長するにつれて、踊りだけではなく物語についてももっと理解したいという気持ちがわいてきました。演じている役柄の性格やその思い、物語の背景を理解することが表現にもつながるのではないかと考えるようになったのです。高校生の時、大学について調べていたところ、「真善美」を掲げる成城大学のことを知りました。松山バレエ団でも「真善美」を大切な理念として幼少のころから学び真似をし意識していましたので、強いめぐりあわせを感じました。
    専門はあえて文芸学部の国文学科を選びました。バレエとは西欧発祥のものですが、私たちの生活や文化にも必ずや通じるものがあると考えていました。卒業論文のテーマは「羽衣伝説」と「白鳥の湖」と比較研究です。そのころは舞台もあり、とても忙しい時期でしたが、反対にそのような機会をいただいたことを契機と受けとめ、ゼミの先生からの「これは、あなたにしかできないテーマですね」という励しや周囲の人たちの支えもあって、最後の一段まで仕上げることができました。
    成城大学で得られた価値あることを糧にしつつ、日常の立ち居振る舞いや一つ一つの舞台、それこそ時間、空間を大切に尊く、これからも一人間として真善美の体現者として成長していきたいと強く思っております。

    小嶋 隆

    小嶋 隆 Takashi Kojima

    日能研関東 代表取締役成城学園中学校、高等学校 成城大学文芸学部 (1993年卒)

    成城学園の良さを聞かれたら、「振り幅の広さ」と答えるでしょうね。
    中・高時代から、勉強にしても部活にしても、そして遊びにしても、四角四面に「規則」に従うのではなく、自ら節度や自主性をもって「ここまでは大丈夫」「これ以上はやってはいけない」ことを判断し、実践していたように思います。そして、先生たちも生徒を信じて任せてくれていた。こうした成城の自由な雰囲気があるからこそ、自然と社会性を身に付けることができるのでしょうね。
    私自身、興味・関心が両極端の方向に向かうことが多く、教育業界とは一見関係のない分野でも、気になったことは積極的に調べるようにしています。
    私が代表を務めている「私学妙案研究所」では、私立学校を美術館にするプロジェクトを進めています。オルセー美術館の複製原画を学内に展示し、地域の方々に開放する、そしてその絵の解説を生徒たちが行うというもので、地域の方々は学校に親しみを持てるでしょうし、生徒たちは一流のモノに触れるきっかけになる。さまざまな効果があると期待しています。 人生を豊かにするには、「振り幅」「遊び心」が大切だと改めて思います。「マジメ」ばかりが正解じゃないと、これからの世代に伝えていきたいですね。

    有巣 弘城

    有巣 弘城 Hiroki Arisu

    有限会社 舩坂酒造店 代表取締役社長成城大学経済学部(2008年卒)

    東京まで片道5時間かかる飛騨高山の田舎から上京してきた私にとって、東京は誰にも束縛されず、あまりに自由、そして非常に刺激的でありました。そのせいか、勉強のために大学に行くことは少なく、もっぱら部活動に一生懸命な毎日。小学校から空手をやってきて、空手道部に所属しました。良き同期や先輩後輩に恵まれ、東京での生活が充実していたのは彼らのおかげだと思います。卒業し就職し故郷に戻った今でも彼らとの縁は続いています。
    実家は、飛騨高山で「本陣平野屋花兆庵」という純和風旅館を家業として営んでおり、私もいつかはその会社を引き継いでいかなければならないと考えていました。それもあって経営学科を選んだのですが、「簿記」と「塘 誠ゼミ(塘ゼミの1号卒業生世代)」には刺激を受けました。それまで、感覚や感情的な考え方で生活をしていたところがあったため、"数字のバランス"や"それを尺度に行動を考える世界"、また、"マーケティング"や"企業戦略を分析すること"は、目から鱗であり、将来会社の経営に関わることを視野にいれていた自分は大変な焦りを感じました。そこで、背水の陣(逃げ場を無くす)で、税務会計系のコンサルティング会社に就職。先輩方や取引先との折衝の中で多くの知識も必要になり、朝から晩まで猛烈に勉強し、仕事に明け暮れました。
    就職して数年後、実家の旅館グループが地元老舗の酒蔵を事業承継することになり、その運営責任者を担うため、いよいよ帰郷することになりました。"旅館のおやじ"になる人生が"造り酒屋のおやじ"になるとは思っていませんでしたが、東京で生活し、コンサルティング会社で学んだ感覚と知識が、今、大変役に立ち、やりがいを感じながら、毎日を送っております。
    最後に、私にとって成城大学は、経営者になるための出発点であり、今でも繋がる良きご縁に恵まれた大切な場所です。学園創立100年のタイミングに関われたことに感謝し、その歴史に恥じぬよう、まだ若い未熟な経営者でありますが、国際観光都市・飛騨高山の未来のため、また日本の伝統文化である旅館経営、そして日本酒の醸造販売に、人生をかけ、精一杯歩んでいきたいと思います。

    岐阜県・飛騨高山にある舩坂酒造店。200年の歴史を持つ店構えに城下町の風情が感じられる岐阜県・飛騨高山にある舩坂酒造店。200年の歴史を持つ店構えに城下町の風情が感じられる
    大吟醸「四ッ星」をはじめ、風味濃くしかも軽快な滑らかさが好評大吟醸「四ッ星」をはじめ、風味濃くしかも軽快な滑らかさが好評
    斎藤 由香

    斎藤 由香 Yuka Saito

    エッセイスト、サントリーホールディングス勤務成城学園中学校、高等学校 成城大学文芸学部(1985年卒)

    中学に入学して驚いたのが、先生と生徒の距離が近いこと。さらに初等学校出身の人達の仲の良さである。私は梅組に入学したが、まさか当時の仲間と50歳を過ぎてまで交流が続くとは思わなかった。
    高校時代の通学途中、両親が成城生だという同期が数人いて、「うちのパパやママが成城の時の友達とゴルフしたり、食事したり、しょっちゅう会っているの」という話を、「大人になってまで学生時代の同級生と会うのだろうか?」と不思議な気持ちで聞いていたが、今、成城の時の同級生と年に数回集まっている。男女20人が集まり、40年ものつきあいだ。以前は子供の話だったのが、その後、離婚の話があったり、転職があったり、最近は病気になった話や、親の介護の悩みがあったりと、まさに人生を共にしている。
    自由な校風でのびのびと教育を受けたお蔭で、物事を卑屈に考えることなく、自分の考えをストレートにのべることができるのは成城教育のお蔭だと感謝している。中学時代の槍ヶ岳の登山や富浦の2キロの遠泳、演劇部での舞台、高校のバスケットボール部、大学の国文学科で中西進先生の非常にレベルの高い授業と、どれも懐かしい思い出です。今でも桜の季節になると、満開の成城の町の風景や、大学構内にかわいい幼稚園生や小学生が歩いていた成城学園の風景が蘇ります。

    斎藤さんが大切にしている中学校の入学アルバムや、学生時代の思い出の写真の数々。高校時代はバスケット部、大学はテニスサークル・タンジェリンに所属していた。
斎藤さんが大切にしている中学校の入学アルバムや、学生時代の思い出の写真の数々。高校時代はバスケット部、大学はテニスサークル・タンジェリンに所属していた。
    木村 佳乃

    木村 佳乃 Yoshino Kimura

    女優成城学園初等学校、高等学校(1995年卒)成城大学文芸学部中退

    一番記憶に残っているのは、初等学校時代ですね。とにかく授業が面白いんです。「遊び」や「散歩」をはじめ、「彫塑」「舞踊」「劇」など芸術系の分野も豊富で、毎日が楽しかった。こんなに多彩な科目があるなんて、すごいことだなと大人になって思います。
    学校が大好きで、下校時間になるまで学校でずっと遊んでいました。「モルダウの流れ」が流れると、やっと家に帰るんです。初等学校時代の友人とは今でもよく会いますね。
    中学はアメリカで過ごして高校の時に帰国し、再び成城学園で学ぶことに。高校では馬術部に入りました。今は伊勢原に移転したと聞きましたが、当時は成城キャンパスに馬場があって、小田急線からも馬場を見ることができたんですよ。毎日、朝5時には厩舎に行って、馬の世話をしていました。デンバー号、ルビー号...大変だったけど、馬たちがかわいくて、3年間やり遂げることができました。
    先日、大河ドラマの撮影で乗馬シーンがありました。脚本家の三谷幸喜さんが、私のプロフィールに「乗馬」と書かれているのを見て、その場面を加えたようなんです。何十年ぶりに馬に乗ることになって緊張しましたが、そこは成城っ子、撮影はちゃんと成功しました。
    創立100周年を機に、成城学園のキャンパスも変わっていくそうですね。さびしい気持ちもありますが、卒業生の一人として、新しい成城を見るのを楽しみにしています。

    大林 宣彦

    大林 宣彦 Nobuhiko Obayashi

    映画作家成城大学文芸学部中退

    受験のために広島の尾道から東京にでて、従兄弟のいた下宿に同居をしましてね。東京に来るとアメリカから来たばっかりの映画が見られるというので自転車を買って、コッペパン1つ持って、朝から晩まで東京中の、3本立ての映画館をまわってました。ある日「向こうに雑木林が見えるぞ、あれが武蔵野の雑木林かな?」と、そっちに向かってどんどんこいで行ったら、雑木林がぐんぐん近づいてきて、それが成城学園。
    裏から入って細い川を通り越してね。ラグビーをやっているグランドの横を通って、雑木林の坂道を上って校庭、そして正門から出ていった。出たらヨーロッパの町ですよ。コツコツと靴の音がしてね、パン屋さんの匂いがして、それで小田急が「フォッフォー」なんていう魔法のような音をして走っていてね。「ああ、いい町だな。この町に住んでみたいな」って。それが成城との出会い。
    当時はまだこの日本に敗戦の跡が残ってましたね。道路は舗装されてなくて、どこ行っても粉じんがまき散ってるような。銀座に荷馬車が走ってた時代ですからね。成城は本当に「ヨーロッパ」だったんですよ。成城には映画のなかの主人公たちが住んでるから、僕もその1人になるという感覚ですよね。父親からもらった8ミリのキャメラを持って「これで映画を作るのは戦争中にはなかったことだ。自分の道はこれで開いていこう」って。
    8ミリキャメラは当時医者や会社社長が道楽で持っていた、今でいえば最高級のゴルフクラブの会員権に相当するような高級品なんです。若者が持てるようなものじゃなかったのね。でも僕にとってはおもちゃに過ぎない。おもちゃに過ぎないこのキャメラで映画作家になったら、これが平和日本が生んだ映画作家だろうと。35ミリの映画は戦争を記録したけども、8ミリの映画はもう戦争を記録することはないだろうと。
    そういうリベラルな思想を生んでくれたのが成城学園の「自由」。決してちゃらんぽらんじゃなくて確信犯、先生方もね。やっぱり戦争を体験した人たちだから、我が校の学生たちは本当の平和、自分が選んだ道を十分に生きる、生きさせてやろうとお考えだったと思う。
    もう60年、僕の映画をプロデュースしてくれている妻とここで出逢って、5年在学して中退するときに先生から「大学なんてのは横に出るのがいいんだ。君も久びさに我が成城から横に出る学生だから、どうか学校の名前を高めてくれ」と言われましてね。だから堂堂と横から出ました。
    そして誰もやらないことをやろうと。僕の場合は8ミリキャメラで映画をつくることだったけれども。それをやれることが自由であると。その自由こそが平和の時代をつくるんだ。そういう僕ら、若者の考え方にフィットしていたのが成城学園なんです。

    吉元 由美

    吉元 由美 Yumi Yoshimoto

    作詞家、作家、淑徳大学人文学部表現学科客員教授成城幼稚園 成城学園初等学校、中学校、高等学校 成城大学文芸学部 (1982年卒)

    「才能を生かして生きていく」。私がずっと信じてこられたのは、初等学校時代があったからです。入学式や卒業式のオリジナルの歌はどれも素敵でした。音楽の授業で歌った歌も素敵でした。舞踊の時間、劇の時間。表現することの喜びを思いきり味わいました。それは、私の特質にとても合っていたと思います。
    中学校の時に、作文の講評で先生に「あなたは作詞家になったらどうか」と書かれたことがありました。理由は分からないのですが(笑)。成城には誰にでも何か才能があると思わせてくれる、心に寄り添ってくれる教育、雰囲気がありました。
    大学卒業後は、広告代理店に勤めました。ある人に「作詞家になったらどうか」と声をかけてもらったことをきっかけに、初等学校の頃から信じていた「才能で生きていく」ために2年間、猛勉強をしました。人生の受験勉強です。
    24歳のときに音楽プロダクションのプロデューサーにプレゼンし、アイドルのアルバムに2曲書くことが決まりました。覚悟をして臨めば、人生は一瞬にして開ける。デビューが決まったので、会社を辞めました。売れる保証などひとつもありませんでしたが、片手に保険のように会社勤めをしながら大きな運はつかめないと思ったのです。このあたりの思いきりのよさは「成城っ子」ならではないかと思います。
    1984年にデビューして、今年で32年になります。多くの歌詞を書いてきましたが、2003年に平原綾香さんが歌いヒットした『ジュピター』の作詞をしたことは、とても大切な出来事でした。2004年に起きた新潟県中越地震の被災者の方を大いに励ました歌として注目されました。そのご縁で、昨年は長岡成城会が主催して下さり、長岡で講演する機会を得ました。
    著書は50冊を越えました。これからも、書き続けていきます。また、5年前に「魂が喜ぶように人生を創造し、感性を磨いていく」ことを伝える小さな学校「ライフアーティスト・アカデミー」を立ち上げました。
    幼い頃から「何かになりたい」「何かを表現したい」と考えていた子どもでした。その気持ちに、素直にまっすぐに向かっていくことができた。今の私をつくったのは、成城学園だったと思っています。

    吉村 祥子

    吉村 祥子 Shoko Yoshimura

    女子レスリングナショナルチームコーチ(エステティックTBC所属)成城学園中学校、高等学校 成城大学経済学部 (1991年卒)

    兄弟に囲まれて育ったせいか、お転婆な女の子でした。父親は女子校に行かせたいと考えていたようですが、とても私の性格に合うとは思えず、自由な校風の成城学園に進学しました。成城は私にぴったりで本当に楽しかったし、私の生き方のベースをつくってくれたと思います。成城の良さは、生徒の自主性を尊重してくれるところ。遠足などの行事では、行く場所やコース内容、すべて生徒が決めて実行していたんです。先生は生徒を信頼し、見守っていてくれるんですよね。
    スポーツが大好きで、ソフトボールや水泳をはじめ、スキーやラグビーもやっていたことがあります。そんな私がレスリングに出合ったのは、高校3年生の時。学外の友人の付き添いでレスリング教室に見学にいき、そのまま一緒に始めることになりました。そしてレスリングを始めて数カ月で、ある大会で優勝! 自分でも驚きましたし、優勝という感動体験は、レスリングの道に進ませる大きな要因になりました。
    1989年の世界選手権で、日本人選手として初めて優勝したのですが、私自身が納得できる勝ちではなく、翌年の世界選手権ではリベンジの気持ちで臨みました。ですからこの時、優勝できたことは本当にうれしかったですね。一方で勝つことに対するプレッシャーも感じるように。体力的にも精神的にも戦い続ける日々でした。怪我などもあり、2004年に現役を引退。その後、私が育ったクラブチームをはじめ、ナショナルチームとJOCエリートアカデミーのコーチを務めています。
    今、レスリングを頑張っている成城生がいるんです。こうして後輩たちが育っていくのが、なによりうれしい。いつかオリンピックでメダルをとれる選手を育てたい。そしてレスリングの魅力をもっと多くの人に知ってもらいたい。まだまだやりたいことはつきません。

    1995年女子世界選手権決勝戦。ロシアに勝利し優勝を決めた1995年女子世界選手権決勝戦。ロシアに勝利し優勝を決めた
    永井 美奈子

    永井 美奈子 Minako Nagai

    フリーアナウンサー、タレント成城大学文芸学部 (1988年卒)

    中学高校と校風の厳格な女子高に通っていました。しかしその校風は私には合わないと感じ、自由を求めて大学から成城大学に通いました。靴下は三つ折、髪の毛が肩についたら結び、セーラー服の白線に髪の毛が届いたら三つ編みにすること等と校則だらけの学校から、何をしても自由な成城に、始めは驚きと喜びの連続、しかし次第に「本当の自由とは、自ら選択し、その責任も自分で取ること」だと学んでいきました。自由な精神は職業の選択にも表れていて、卒業時の進路先に堂々と「俳優」と書いてあるのを見て、成城らしいなと思ったものです。
    成城はあらゆる個性を尊重する代わりに、他人には無い自分らしさを見つけている人が多く、私も自分探しの4年間だったように思います。「伝え方によって 聞く人が全く違う理解 反応になる」という言葉の面白さに気づき、「伝え手になりたい」とアナウンサーを目指しました。成城でなければこの選択はなかったでしょう。時を経て息子が初等学校に通いました。最初に覚えてきた言葉が「十人十色」。脈々と受け継がれる成城魂は、社会で生き抜く強い力になってくれると思います。不定期ですが、成城大学の非常勤で教鞭を取っています。少しでも成城らしさを伝えていくことができれば嬉しいです。

    青木 彰宏

    青木 彰宏 Akihiro Aoki

    AOKIホールディングス代表取締役社長 COO成城大学経済学部(1994年卒)

    当時、成城付近に住んでいて、成城大学の自由な雰囲気はなんかいいなと思っていました。駅や街全体もゆったりとしていましたね。
    成城大学では、存分に学生生活を楽しみました。ESSやサッカーなどのサークル活動をしたり、カナダやロンドンなど海外に個人旅行に行ったり。
    ファッションや文化にも興味を持つようなったのもこの頃です。大学の図書館に映画のDVDがたくさんあって、ブースにこもって観ていましたね。中でもジム・ジャームッシュの映画がかっこよくて印象に残っています。
    当時は鶴田真由さんや雨宮塔子さん、高島政伸さんなど芸能関係の方たちが通っていて、はなやかな雰囲気がありました。それに成城学園高等学校から進学してきた人たちはとてもオシャレで、洋服の着こなしも上手でした。今の仕事にも参考になったかなと思います。
    振り返ると、大学4年間を自分の興味や関心のある出来事に費やすことができました。経験のすべてが自分の未来につながっていくし、どんなことも無駄はなかったと思います。
    学生時代からAOKIでバイトをしており、大学卒業後はやはりAOKIに入社しました。AOKIには新しい挑戦やアイデアを"やってみろ"と後押ししてくれる社風があります。私は2003年に、20代から40代を対象に、新しいスーツスタイル、"ビジカジ"をキーワードにした「ORIHICA(オリヒカ)」というプロジェクトを立ち上げ、ショッピングセンターに展開しました。 成城で培ったセンスを活用して、これからもスーツシーンに新しい風を吹かせていきたいですね。

    ORIHICA二子玉川ライズ・ショッピングセンター店ORIHICA二子玉川ライズ・ショッピングセンター店
    福王寺 朱美

    福王寺 朱美 Akemi Fukuoji

    アーカー代表取締役社長成城学園中学校、高等学校(1974年卒)

    中学生の時に、講堂にかけられていた澤柳政太郎先生の書「所求第一義」の言葉が大きな支えになっています。真実を求める大切さを説いた仏教用語ですが、私はどんな仕事でもどんな立場でも、一流、本質を求める気持ちが大切だと解釈して、朝礼の時などスタッフにこの言葉を伝えています。
    英語を学ぶために大学はアメリカに留学していたのですが、宝石商の父が急死。その跡を継いで宝石鑑定士になりました。その後、日本画家(成城の同級生です)と結婚し、彼のサポートを通じて美術の世界に関わるように。こうした経験が創作活動に影響したと思います。
    アーカーのスタートは表参道の雑居ビルの中、わずか9坪の事務所でした。
    若い人たちに本物の素晴らしさを伝えたくてはじめた「プチジュエリー」というコンセプトは新しいもので、口コミで評判が広がりました。そしてアーカーは2017年に20周年を迎えます。世代を超えて愛されるブランドにするために、原点に立ち返りながら、今後もオリジナリティを大事にしたいと考えています。
    忙しい毎日ですが、成城時代の同級生と会ったり、ラインでやりとりしたりするだけで楽しい気持ちになりますね。まだまだ先になるでしょうが、いつかは成城の街に戻りたい。学生時代に通ったお店をのぞいたり、ときにキャンパス内を散策したり。あの街をふくめて成城が大好きなんです。

    築60年の古民家をリニューアルしたアーカー神南本店。南仏のリゾート地のような雰囲気を醸し出す築60年の古民家をリニューアルしたアーカー神南本店。南仏のリゾート地のような雰囲気を醸し出す
    やわらかな日差しが降り注ぐ室内。アーカーのフルラインがここに揃うやわらかな日差しが降り注ぐ室内。アーカーのフルラインがここに揃う
    及川 光博

    及川 光博 Mitsuhiro Oikawa

    ミュージシャン・俳優成城学園中学校、高等学校 成城大学法学部(1993年卒)

    成城学園はまさに青春のステージでしたね。
    人前に出て何かを表現し、拍手や声援をいただくことの快感や達成感を子供の頃から知っていたので、成城学園の「個性を尊重する」という理念は僕にとってとてもありがたいものでした。
    中学時代はバスケ部(補欠メンバーでしたが)と演劇部に所属し、ロックバンドを組んでボーカルを担当しました。思えばこの頃から僕の人生の方向性は決まっていたのかも知れません。
    高校時代はグランドホッケー部(部長を務めました)とやはり演劇部。演劇コンクールで優勝したことは誇りの持てる大切な思い出です。
    そして大学時代は軽音楽部に入り、いよいよプロデビューを意識した活動をスタートしました。成績はいまひとつでしたが(笑)。 毎年の文化祭が、僕に多くを学ばせてくれました。楽しかった! そして忙しかった!
    演劇部の公演、001教室でのライヴ、中夜祭の司会など参加イベントが盛りだくさんで、文化祭が終わるとしばらく放心状態でしたね。そこで、チームワークの大切さ、プロジェクトを成功させるための逆算、トークスキル、集中力を高める方法など、現在の仕事に活きる様々な経験ができました。
    "出る杭は打たれる"... なんてこともしばしばありましたが、それも含めて貴重な発表の場でしたね。言ってみれば、今もなお、文化祭の毎日ですよ(笑)。
    大学時代の同級生や後輩たちとは今でも集まってワイワイやっています。数々の思い出や多くの時間を共有した仲間と会うのは楽しいものです。社会人として別々の日常を過ごしていても、たまに集まると、あたたかい気持ちになります。やっぱり心の解放感がちがうんですよね。
    ビバ!成城☆

    田中 豊

    田中 豊 Yutaka Tanaka

    アートグリーン 代表取締役社長成城学園初等学校、中学校、高等学校 成城大学経済学部 (1988年卒)

    身体が弱くおとなしい性格だった僕は、いわゆるいじめられっ子。勉強もスポーツもできず、友達もなかなかできなかった。大人になったら、えらくなって皆をびっくりさせたいと「社長になろう!」と考えたのです。
    大学卒業後はゴルフ場を運営する企業に就職し、ゴルフ会員権の営業を務めました。バブル時代で、営業はとても順調でしたね。そうして資金を貯めながら、起業の準備を進めていました。参考にしたのは『役員四季報』です。当時は、上場企業の役員の趣味まで掲載されていて、数えたところ3番目に多い趣味は園芸でした。調べてみると、1兆2000億円ほどの市場規模がある一方で、競合はほとんどない。ニッチな分野だと感じました。
    そして25歳で起業、贈答用の胡蝶蘭を取り扱う今のビジネスを立ち上げたのです。2015年には上場を果たすこともできました。会社を継続するために経営理念の大切さも実感するようになりましたね。総合園芸商社を目指し、挑戦を続けていきたいです。
    最後に。いじめられっ子だった自分ですが、高校生のときから明るく人に接することを心がけるようになりました。すると友達がどんどんふえたのです。そうして自分も周りも変わっていき、学校が大好きになりました。大学では生物部の部長や文化部連合本部で重要な仕事を任されるように。あきらめずに成し遂げる大切さは、成城で学んだのかもしれません。

    中村 米吉

    中村 米吉 Yonekichi Nakamura

    歌舞伎俳優成城学園初等学校、中学校、高等学校(2011年卒) 成城大学文芸学部中退

    初舞台を踏んだのは7歳のとき。観にきてくれた初等学校の友達が花道から見えて、台詞が飛んでしまったこともありました。
    舞台は大好きでしたが、初等学校4年生の夏休み以降、学校生活を優先するためいったん舞台を離れることに。中学、高校で1度ずつしか舞台に上がることがなく、正直、焦りを感じることもありました。ですが、学校生活を優先してきたことが今に生きていると思いますね。初等学校での「読書の時間」に本を読む習慣がついたのも役に立っています。自分が舞台に出ていない間も、他の人の舞台を観たり昔の文献を読んだりして、自分なりに歌舞伎へのアプローチを考えられたのは、自主性を重んじる成城教育で自立心が養われたからかもしれません。
    大舞台の経験を重ね、最近は歌舞伎の将来を担う責任も感じるようになりました。10年、20年と歌舞伎を見続けてもらいたい。若い世代に歌舞伎に興味をもってもらうために、私たち若手がいっそう力を付けていかなくてはと感じています。

    中村 米吉
    田村 正和

    田村 正和 Masakazu Tamura

    俳優成城学園中学校、高等学校 成城大学経済学部(1966年卒)

    私は、昭和18年、京都で生まれました。父は日本橋の生まれで、常々、男は、東京へ出なくては駄目だと、言っていたそうです。
    敷地を何処にするか、2、3候補があった様ですが、子どもたちが、電車に乗らずに通学出来る様にと、成城に購入したそうです。成城学園が頭にあったのでしょう・・・。小学校5年生から、成城での生活が始まりました。
    ところが、成城学園初等学校に席が無く、5年、6年と近くの小学校に通い、 中学1年から成城学園に入学しました。
    成城での経験が役に立った事―――個性尊重、独立独行...私は生来、のんびり屋で、あまり欲が無く、何事にもマイペースでした。学園での生活も、中学、高校、大学と、勉強はあまりしませんでしたが、バスケットボール部で忙しい僕を、頭の良い級友達が、助けてくれました。学生時代の可愛い小さな想い出ですが、今、思うと、周りには、いつも優しい友が居ました。
    やはり、人間関係の大切さというものを、心身に植え付けてくれたのは、成城学園の精神、教育、環境ではないかと思います。キャリアが始まってからも、人との出会いが無ければ、今の私は無かったでしょう。私には、4人の方との、大切な出会いが有りました。
    今後の展望―――この年になっても、もっとのんびりしたい。今は、キャリアを終えるきっかけを模索している処です。

    田村 正和
    吉田 明世

    吉田 明世 Akiyo Yoshida

    TBSアナウンサー成城学園初等学校、中学校、高等学校 成城大学文芸学部(2011年卒)

    父の家系が成城学園出身で、5歳上の兄、7歳上の姉も、皆成城っ子。自然と、自分も通うんだろうなと思っていました。初等学校から大学まで16年間通っていたので、成城は第二の故郷のような感じです。他大学への受験を考えたこともありましたが、成城の家庭的な雰囲気が大好きで、ずっとここで、という思いのほうが強かったです。
    大学ではマスコミ学科なのに恥ずかしいのですが、アナウンサーを目指すようになるまでジャーナリズムってどういうものか深く考えることもありませんでした。でも、初等学校時代からの親友のお父様がキャスターで、期末テスト前にジャーナリズムについて話をうかがう機会がありました。その影響が大きく、今もそのときのお話を思い出しながら「偏っていないだろうか」「主観が過ぎてないだろうか」と意識しています。
    皆で協力してひとつの番組を作り上げる作業は、成城で教えてもらった協調性を生かせる瞬間が多く、成城っ子でよかったと日々感じています。

    安東 弘樹

    安東 弘樹 Hiroki Ando

    TBSアナウンサー成城大学法学部(1991年卒)

    大学受験の時、確実だと思っていた志望校に落ちてしまって。その1校しか受けていなかったから、どうしようかと思っていたら、友人が3月に成城大学の2期の入学試験があると教えてくれたんです。成城のことはよく知らなくて、「お坊ちゃん、お嬢さんが通う」イメージが強かったから、迷いもあったけれど、受験の時、見回りをしていた先輩のスーツ姿が清楚できりっとしていて、とても印象的でした。それで、ここなら入りたいなと。
    実際に入学すると、自由で家庭的な雰囲気もありながら、臆せずに言いたいことを言い合える関係がつくれて居心地がよかったですね。
    「ネバ」という体育会御用達の大盛りの店があって大量のご飯を下級生が食べきれずに残すのを上級生が叱るのが伝統でした。それなのに、僕は全部食べきってしまって「分かってない」と叱られたのもいい思い出です。

    田中 誠

    田中 誠 Makoto Tanaka

    映画監督成城大学文芸学部(1985年卒)

    小さい頃から映画が好きで、芸術分野に興味がありました。しかし実家は建設関係の会社を経営していて、両親は経済学部など会社の運営に役立つような分野に進んでほしかったようです。成城に合格したときは、先手を打って父の目の前で土下座をし、入学を許してもらいました。
    好きなことを学べるのだから、大学はもちろん面白かった。講義では、映画の構造や物語の背景を学び、映画研究部では自主映画を撮っていました。理論と実践の両方をやることができたんですよね。
    大学は学び方を学ぶ場所だと思います。糸口が分かれば、自分で勉強を続けることができる。私は卒業してからも、映画理論の専門書を何度も読み返していました。卒業して20年後、ある時その本の内容が「分かった」んです。「映画とは何か」ということが理解できて、これで自分でも撮れるという自信がついた。フリーランスとしてテレビのディレクターなどいろいろな仕事に関わってきましたが、すべて手を引いて、デビュー作『タナカヒロシのすべて』の監督と脚本を手掛けることに。脚本を執筆するときは、既に頭の中にカット割りが浮かんでいましたから、作業はスムーズに進みましたね。
    仕事を離れると、最近は自転車に夢中です。自転車の奥深さはライフスタイルや考え方にまで影響してくること。いつか自転車がテーマの映像を手掛けるかもしれません。

    今井 大介

    今井 大介 Daisuke Imai

    音楽プロデューサー、シンガー・ソングライター、ラジオパーソナリティ成城学園初等学校、成城学園中学校、高等学校(1993年卒) 成城大学文芸学部中退

    成城学園には初等学校から大学2年生終了までお世話になりました。
    思い出は数知れずですが、とても印象に残っているのが初等学校2年生のとき、お父さん方がご自身の職業について語ってくれたことです。指揮者の小澤征爾さんや国際線のパイロット、会社経営をなさっているお父様方のお話を聞き「好きなことをお仕事にされているのは素晴らしい。なんて素敵なことだろう」と子どもながらに感銘を受けました。このときのことが、その後、私が音楽家としてのキャリアを進む際に大きな影響を与え、同時に希望となったことに間違いありません。
    音楽業界はCDからストリーミングへとパラダイム・シフトのまっただ中にいます。しかしビジネスモデルがどんなに変化しようと私たちが奏でるメロディはアナログの世界です。成城学園の学生生活で培った創造力を存分に発揮して、これからの音楽シーンを活性化させる一端を担っていき、また成城学園の在学生や卒業生と共に音楽を創る機会があれば、それは最高のことです。

    楽曲提供、プロデュースしたグラミーアーティストMyaとL.Aのレコーディングスタジオにて楽曲提供、プロデュースしたグラミーアーティストMyaとL.Aのレコーディングスタジオにて
    梅若 長左衛門

    梅若 長左衛門 Chozaemon Umewaka

    能役者(観世流シテ方)・無形文化財保持者・公益財団梅若会理事成城学園高等学校(1975年卒) 成城大学文芸学部中退

    出身校を問われたら「成城大学文芸学部文化史コースを優秀な成績で中退しました」と答えています。もちろん大真面目です。「日本の仮面」をテーマに卒業論文に取り組んだのですが、あまりにも壮大で完成するまでに至らなかった。それで中退となったのですが、着眼点や構想は新しいもので、私のライフワークになると感じました。現在も、当時ゼミでお世話になった田中宣一先生(成城大学名誉教授)の勉強会や読書会に参加するなど、勉強は続けています。
    2012年に、成城大学の総合講座で、いろいろな方がオムニバスで講義したものをまとめた書籍が発行されました。その中に私が寄稿したものも掲載されています。発行後、すぐに先生からお電話があり、「よく勉強されましたね。大学院の論文に匹敵するね」という言葉をいただきました。ずっと気にかけてくださっていたんだと、本当にありがたく思いました。
    大学時代、自分のゼミ生でなくても「研究テーマは?」「あの本は読んだ?」と自然に指導してくれる先生が多くいました。成城には高校から通ったのですが、ある時、初等学校の校長先生から「通学中の君を見ていて、成城になじめるか心配していたんだよ。もう大丈夫だね」と声をかけられたことがあります。成城で学ぶ子どもたちは皆で育てるという意識が強かったんでしょう。これが成城イズムだと思います。良き伝統です。
    創立100周年を記念して、「和のプロジェクト」を始めます。能や歌舞伎、長唄、三味線、舞踊...。成城学園の卒業生には日本の伝統芸能に関わっている人が多くいます。そのメンバーが中心となって、成城学園と連携し、いろいろなプロジェクトを進めています。子どもたちに本物の芸を見せることが、私のできる恩返しかなと思っています。

    小中 千昭

    小中 千昭 Chiaki Konaka

    脚本家成城学園中学校、高等学校 成城大学文芸学部(1985年卒)

    裁判官や弁護士が多い家系だったのですが、子どものころから好きなことしかしないタイプ。両親は、自分が向いている道に進んだ方がいいと考えたようで、自由な校風の成城学園に入学しました。
    高校ではブラスバンド、大学では軽音楽部に。小学校から始めた自主映画の制作もずっと続けていました。使っていない軽音の部室で、特撮映画用の怪獣をつくっていて、軽音のメンバーに「くさいよ」なんて言われたことも。音楽と映画に夢中の日々でした。
    学生のころからディレクターの仕事をしていて、自分は映画監督になると思っていたんですが、ある人の勧めで脚本を書いたら、次々と仕事がくるようになって。意図せずホラー作品が多かったのですが、回数を重ねると自分なりのメソッドがみえてくる。それが大学で聞いた講義と重なることに気付いた。当時は「理論なんて」と思っていたのですが、実作業でも参考になることがたくさんありました。大学の教育ってこういうものかなと今になって思う。どんな"知の財産"をもったらいいかヒントをくれる場所なんだと。
    30歳をすぎたころ、『ウルトラマンティガ』の制作が決まり、自分も脚本家の一人として参加しました。新しい「ウルトラマン」シリーズをつくることはもう無理な時代だと思っていたから、「自分の回は、ちょっと変わっていて面白いものにしよう」とティガと心中するくらいの気持ちでしたね。真剣に意見を交わすうちに、周りのスタッフに信頼されるようになり、中盤から最終回までのシリーズ構成を手掛けるようになりました。一度はあきらめていた自分が見たいウルトラマンをつくることができたと自負しています。
    いま、映画美学校で脚本を教えています。自分が若いころは脚本なんて教わるものじゃないと思っていました。でも脚本の力が弱っているのを感じて、暗澹たる思いがあるんです。一人でも気を吐くような脚本家が育てられたら――、育てなきゃだめなんだと。それが今の自分にできることかな。
    (映画美学校試写室にて撮影)

    荻原 浩

    荻原 浩 Hiroshi Ogiwara

    小説家成城大学経済学部(1980年卒)

    文芸学部と経済学部に合格し、経済学部に進みました。サラリーマンの家庭に育ち、自分も普通にサラリーマンになるだろうと思っていたので、経済のほうがつぶしがきくだろうという気持ちでした。
    絵やイラストを描くのが好きで、どんな活動をしているか分からないまま広告研究会に入りました。8ミリで何かを撮影したり、CMの真似事をしたり、広告理論について研究したり...。ちゃらちゃらしていると思われがちですが、割とマジメにやってましたね。
    半年間の専門学校をテーマにした課題で、「あなたの一年の半分をください」というコピーが、仲間にうけた記憶があります。文化祭で機関誌やPR誌を制作するときには、文章担当になり「作文は好きじゃないんだけど」なんて言いながら、実際書いてみると評判がいい。「そうか、自分は文章の人なのか」と向き不向きがすこし分かってきて。就職のときには、コピーライターを目指すようになっていました。成城は、何をしていいか何をしたいのかわからない自分が、方向性を見つけられた場所じゃないかと思います。
    小説すばる新人賞をいただいたデビュー作は、「ユーモア小説」と評されることが多かった。その後も同じようなテイストを求められる雰囲気を感じていて、違うものを書きたいと考えた時期があったんです。あるとき、「ミステリーを書かないか」という依頼に、「シリアスじゃないと書けないかも」とかえした。シリアスミステリは書いたことがなかったのに、です。それが、4作目となる『噂』。これを実際に書き上げたことは、自分にとって大きなターニングポイントになりました。
    40歳手前で小説を書き始めたのですが、コピーライターの仕事があったので、生活の糧としてはとらえていなかったんです。むしろ、仕事より大切だという思いで、こうしたら売れるんじゃないかとか手段は考えなかった。ある意味、「プロ」っぽくならないということを心がけています。今は作家専業となりましたが、これからもその気持ちで書き続けたいですね。

    荻原さんの著作『噂』と『冷蔵庫を抱きしめて』。後者の作品には大学時代でのバイト経験が盛り込まれている荻原さんの著作『噂』と『冷蔵庫を抱きしめて』。後者の作品には大学時代でのバイト経験が盛り込まれている
    大槻 貴宏

    大槻 貴宏 Takahiro Otsuki

    下北沢トリウッド代表・ポレポレ東中野支配人成城大学経済学部(1991年卒)

    あまり大学には行かずに友達と遊んだり...、いわゆる普通の学生でしたね。経済学部だったのですが「為替」の決め方について学ぶ講義があって、そのあたりから大学って面白いなと思いはじめました。小林秀徳先生の「システムダイナミクス」という講義は特に印象に残っています。
    当時、バブルが終わりかけていたものの、世の中はまだまだ浮かれていた。就職状況もよく最大手の証券会社を受けようと思っていたのですが、それも違うなと。以前から「好きなことをやって、きちんと生活できたらどんなにいいだろう」と考えていたんです。大好きな映画をビジネスにしようと思いたち、それにはアメリカが一番だろうと、就職をやめてアメリカの大学に留学、映画プロデュースについて学びました。
    帰国して下北沢にトリウッドを開館できたのは32歳のとき。それから17年間、短編映画専門館として、さまざまな取り組みに挑戦してきました。最近、興味があるのは、映画館と配信の融合です。映画館が閉館するというニュースも時にありますが、ともに映画を楽しむ場というものはなくならないと思います。新しいものを取り入れながら、映画館の在り方を発展させる可能性を探し続けたいですね。

    トリウッド
    眞壁 潔

    眞壁 潔 Kiyoshi Makabe

    株式会社湘南ベルマーレ代表取締役会長・湘南造園株式会社代表取締役社長成城大学法学部(1985年卒)

    「眞壁さんって何をやってた人?」
    私が湘南ベルマーレの取締役に就任したばかりのころ、スタッフの一人に言われた言葉です。当時、ベルマーレは親会社が撤退し、来季の運営も危ぶまれていた。慣れない資金集めに苦労するスタッフに、スポンサーをお願いしたい企業の選定や企画書の作成、情報発信の方法など、いろいろ指導しました。そこで出てきたのが冒頭の言葉だったのです。造園業の社長だとばかり思っていたから、驚いたんでしょうね。
    私としては当たり前のようにやってきたのですが、改めて思い返すとそのベースは成城大学時代につくられたのではと感じます。
    大学2年生のとき、校門前に停めてあったステッカーべたべたのラリー車を見て、自動車好きの私は「かっこいい!」とほれぼれしてしまった。その車は自動車部の先輩のもので、すぐに自動車部への入部を決めました。成城の自動車部は歴史も実績もあり、先輩もフレンドリーで新しいことをやろうとする意欲の高い人が多かった。先輩のアイデアでJAF公認クラブを作り、大規模でハイレベルな「成城ラリー」を実現したのは本当に印象に残っています。紹介や飛び込みで企業をまわって協力を依頼するのですが、大学生だった自分は手書きの企画書を持っていき、訪問先の企業の方に企画書の書き方を指導されたこともありました。この方も成城の出身だったのですが。教え上手な先輩が多く、その姿をみて組織の動かし方や人のまとめ方などを自然と学んだように思います。

    眞壁 潔
    植田 薫

    植田 薫 Kaoru Ueda

    武生商業高校教諭・「日本一ファンキーな」吹奏楽部顧問・ミュージシャン成城大学文芸学部(1983年卒)

    何と言っても軽音楽部での活動が学生時代の中心。いつも軽音メンバーや文連の連中と一緒でした。軽音のバンド「ホルモン」ではトランペットとボーカルを担当していて、当時ディスコで流行していたアース・ウィンド&ファイアーの『セプテンバー』や、クインシー・ジョーンズの『愛のコリーダ』をやると盛り上がりましたね。成城の軽音はレベルが高く、私も同級生だった辻仁成君とバンドを組んだり、桑名正博さんなどのプロの仕事も体験できたりしたことは本当に刺激的でした。
    音楽中心の生活でしたが、勉強もしっかり...やっていましたよ。成城大学に入学を決めたのは、国語学の山田俊雄先生への憧れもありましたし。卒業後は故郷の福井に戻り教員の道に進みました。教員の仕事においては、国文学科の講義ひとつひとつが全部そのまま役に立っています。
    吹奏楽部の顧問として感じるのは、音楽を自らが楽しみ、さらに観客と一体になってGrooveするという経験は、軽音での数々のライヴ活動が根源になっているということ。未だに続けているバンド活動も含め、自分の音楽経験を高校生に還元し、高校生と一緒にさらに発展させていく。成果のひとつとして、全国大会へ何度も出場できていることもうれしいです。
    自分が体験した音楽の素晴らしさが、現代の高校生にストレートに伝わっていることを実感しています。

    ファンクミュージシャン、JB ORGAとしてもステージに立つファンクミュージシャン、JB ORGAとしてもステージに立つ
    藤井 黎元

    藤井 黎元 Reigen Fujii

    津軽三味線奏者成城学園高等学校 成城大学法学部(2014年卒)

    父が三味線奏者なので、母のお腹の中にいる頃から三味線を聴いていました。三味線の音色は、自分にとってとても身近な存在。12歳でこの道に入り、2012年の大学3年生のとき、「津軽三味線日本一決定戦日本一の部」で優勝、最年少で津軽三味線第5代日本一になることができました。
    一つのことを究めて1位になることにアイデンティティーを感じる性格。そのために、どんな時も自分の限界まで力を出し切り、高みを目指して練習してきました。努力は自分に反映される。だから練習を苦に思ったことは一度もないんです。
    学生時代はちゃんと授業にも出ていましたね。著作権やギャランティーについてなど、法学部で学んだことは音楽活動にも役立っています。
    卒業後は、本格的に三味線奏者としての活動を始めて、あらためて三味線のトッププレーヤーとしての自覚も芽生えてきました。一つでも多くの民謡を後世に伝えるために、レパートリーを広げる大切さも感じています。嵐やももいろクローバーZなど、最近ではジャンルを超えていろいろな方と共演する機会も増えました。
    夢は、世界で三味線が認知され、その最初のトップミュージシャンになること。流派の枠を超えて尊敬される弾き手になりたいですね。

    津軽民謡とオリジナル曲を収録したアルバム津軽民謡とオリジナル曲を収録したアルバム
    鈴木 謙一

    鈴木 謙一 Kenichi Suzuki

    脚本家成城大学文芸学部(1995年卒)

    一浪して成城大学へと進学するとき、実は、もう一つの志望校からも合格通知を受け取っていました。どちらに進もうか悩みに悩みましたが、成城に決めました。きっと、周囲の街並を含めたキャンパスの雰囲気に、自由で穏やかなものを感じ、自分を受け入れてくれそうな気がしたのだと思います。
    在学中はしかし、そのキャンパスは素通りして、文連坂を下り、文連ハウスへと直行する日々でした。外階段を3階まで上り、薄暗い廊下を少し歩いた右側。映画研究部の部室。この居場所を見つけられたことが、大学生活での一番の出来事だったかもしれません。
    講義やゼミでも映画について学びましたが、それ以上に、たくさんのことを吸収した場所でした。今の脚本の仕事へと導いてくれた、中村義洋監督と初めて出会ったのも、この部室です。
    先日、映画研究部の同期で集まる機会がありました。皆それぞれに年齢を重ね、久しぶりの再会だったにもかかわらず、すぐにあの頃の部室のように、くだらない話で盛り上がれたことが嬉しくてなりませんでした。

    永島 譲二

    永島 譲二 Joji Nagashima

    BMW エクステリアデザイン・クリエイティブ・ディレクター成城幼稚園 成城学園初等学校、中学校、高等学校(1974年卒)

    物心ついた時から自動車が大好きな子どもでした。TVを見ていても覚えているのは車が出てくるシーンばかり。ノートには車の絵をたくさん描いていました。
    成城学園には幼稚園から通いました。特に記憶に残っているのは初等学校のころですね。美術や工作の授業が充実していたし、散歩の時間があったりと、いわゆる勉強以外の科目がたくさんあって楽しかったです。
    高校生の時には自動車のデザインがしたいと考えるようになっていました。まず絵に親しむのが大事と、美術部に出入りするようになったのですが、部員は現在日本藝術院会員の日本画家、福王寺(一彦)くんと僕の二人だけ。そこで放課後には日本デザインスクールのカーデザイン科に通って勉強しました。
    卒業後は、芸術系の大学で学び、アメリカの大学に留学。そのまま海外の自動車メーカーで働くようになって、今はドイツのミュンヘンを中心に活動しています。日本で過ごす時間はなかなかとれませんが、それでも12年以上を共にした学友とのきずなは強くて、ミュンヘンで日本からの友人を迎えることがあると、なんだかほっとします。

    永島さんがデザインを手がけたBMW Z3永島さんがデザインを手がけたBMW Z3
    鵜飼 秀徳

    鵜飼 秀徳 Hidenori Ukai

    日経BP社 記者成城大学文芸学部(1999年卒)

    住宅街に溶け込む銀杏並木と、その向こうに広がる狭いキャンパスの雰囲気に一目惚れし、文芸学部マスコミュニケーション学科に入ったのが1994年でした。当時、テレビでご活躍だった故石川弘義先生のフランクなお人柄に触れ、大いに刺激を受けたものです。
    在学中はもっぱら、テレビ局で記者助手のアルバイトに精を出していました。授業にはあまり出なかったけれど、報道の現場に立ち続けたいと、卒業後は新聞社に入社。現在は経済誌「日経ビジネス」の記者として活動しています。
    2015年春には『寺院消滅~失われる「地方」と「宗教」』を上梓する機会にも恵まれました。本書では2040年までに日本の寺院のおよそ4割が消えてなくなる、と指摘しています。フォーリンプレスセンターでの記者会見をきっかけに、英国ガーディアン紙やエコノミスト誌など海外メディアでも大きく取り上げられました。
    記者の仕事をしていると、各界でご活躍の先輩方に、取材でお会いすることがあります。文化人、政治家、経済人...。取材を終えて最後に「実は、同じ成城出身で...」と打ち明けると、みなさん表情が一変します。あるラジオ番組に出演させていただいた時には、パーソナリティを務めている気鋭の評論家のほうから、「大学の先輩ですね」とオンエア中に教えられたこともありました。そこからは、決まって成城談義に......。「成城ネットワーク」というより、「成城共同体」という言葉がふさわしいのかも。

    鵜飼 秀徳
    鶴田 真由

    鶴田 真由 Mayu Tsuruta

    女優成城学園中学校、高等学校 成城大学文芸学部(1993年卒)

    先生や生徒の距離が近いのが成城の良さ。家族的で、今もホームに帰ってきたような安心感があります。おっとりとした校風の中で、なぜか女性が強い。女性リード型の校風は、伝統なんでしょうね。
    中学校の時に創作ダンスの発表会をしたり、音楽の時間には記念講堂で行われる小沢征爾さんの練習風景を見学したり。知らず知らずのうちに感性が育まれていたのではないかと思います。
    両親が共に美大卒業で美術に関する仕事をしていたので、自然とその方面に興味を持つように。文芸学部芸術学科に入学し、大学2年の夏休みには1カ月ヨーロッパの美術館を巡るツアーに参加したのも、貴重な経験でした。そこで気になったゴッホと彼の精神病をテーマに卒論をまとめました。
    卒業後は、美術館でトークをするお仕事をいただいたり、雑誌の企画で京都の仏像を巡ってみたりと、芸術に親しむ機会が増えました。そうした仕事を通して、学生の頃はよく分からなかったことが今になって分かることもあって。時を重ねるごとに点と点が線としてつながってきた。学生時代の学びが私のベースになっていると感じます。

    福井 泰代

    福井 泰代 Yasuyo Fukui

    ナビット代表取締役(「のりかえ便利マップ」発案者)成城大学経済学部(1988年卒)

    学生時代のアルバイトで学習塾の運営に携わることに。「子どもに好かれる塾」というコンセプトを考えて、遠足やボウリング大会といったイベントを開催したところ、思惑があたって子どもたちは大喜び。やがて保護者の方からも評価をいただくことができました。卒業後は結婚・出産を機に、主婦業に専念していましたが、ある日、子どもをベビーカーに乗せて駅に向かうと、どこにエレベーターがあるか分からなくて、右往左往してしまいました。この経験をもとに、「のりかえ便利マップ」のアイデアが浮かんだのです。きっとよろこばれると一人で地下鉄全駅を調査し、データをつくり上げました。何か思いついたら、行動せずにはいられない性分。加えて、学生時代の経験で、自立心や行動力が養われたのでしょうね。

    のりかえ便利マップ
    鶴見 尚也

    鶴見 尚也 Naoya Tsurumi

    セガサミーホールディングス専務取締役・
    セガホールディングス取締役副会長成城大学経済学部(1981年卒)

    学生時代はアメリカンフットボール一筋。仲間とともに練習に明け暮れる日々でした。大学を卒業してから、やっと自分の不勉強を思い知って、英会話学校に通ったり貿易実務を勉強したりとくらいつくのに必死でした。 これまでアジア、アメリカ、ヨーロッパと世界各国でビジネスを経験してきました。もちろん苦労したこともありましたが、基本的には人間同士、万国共通だと感じることも多かったですね。日々努力を重ね、あきらめずに議論を重ねることで信頼関係を気づくことができた。この精神は、学生時代の部活動で培われたものが大きかったと思います。
    今でも、試合や合宿には顔を出します。気心知った仲間とかわいい学生たちとの時間はとても大切なものです。一瞬で学生時代がよみがえるようです。

    2013年に30代~50代のOBで結成された成城アメフトOB会公認のFlag Football Team。2014年1月横浜スタジアムで行われた大学50校ほどが集まって行われた全国大会にも出場2013年に30代~50代のOBで結成された成城アメフトOB会公認のFlag Football Team。2014年1月横浜スタジアムで行われた大学50校ほどが集まって行われた全国大会にも出場
    中村 元

    中村 元 Hajime Nakamura

    水族館プロデューサー成城大学経済学部(1980年卒)

    新江ノ島水族館、北の大地の水族館(山の水族館)、サンシャイン水族館など数々の水族館のリニューアルに携わってきました。プロデュースする際には、明確なコンセプトを打ち出すことにしています。例えば、サンシャイン水族館なら、大都会・池袋にある商業ビルという立地条件を生かせるよう、大人のための「天空のオアシス」というコンセプトで緑豊かな癒しの空間を作ろうと考えました。スタッフのモチベーションも重視し、広く意見を取り入れるようにしています。ドーナツ型の水槽の中をアシカがぐるぐると回る「サンシャインアクアリング」は営業スタッフの発想をきっかけに、生まれました。
    実は、大学を卒業して、水族館に就職したものの魚に興味があったわけではないのです。ですが他のスタッフとは違った視点をもちたいと、お客さまの行動に目を配ることを心がけました。今の私のプロデュースには、大学時代に学んだマーケティングが役立っているように思います。

    サンシャイン水族館のメーン展示「サンシャインラグーン」サンシャイン水族館のメーン展示「サンシャインラグーン」
    村岡 恵理

    村岡 恵理 Eri Muraoka

    作家、『アンのゆりかご 村岡花子の生涯』
    (NHK連続テレビ小説の原案)成城大学文芸学部(1990年卒)

    子供のころから好きだった演劇について学ぼうと文芸学部に入学しました。3年生の時に、友人の紹介で、女性雑誌で美術関連のコラムを書くようになりました。これがキャリアのはじまりと言えるのでしょうね。少しずつ仕事の幅も増えてきて、著名人のインタビューも手掛けるようになって...。当時は毎日のように舞台を観ていたので、原稿料はすべてチケット代に消えましたが。学生時代に本物の芸術に触れたことは、今に生きる貴重な財産です。

    アンのゆりかご 村岡花子の生涯
    大坪 孝雄

    大坪 孝雄 Takao Otsubo

    王子製紙元会長
    旧制成城高等学校尋常科、
    旧制成城高等学校文科(1948年卒)

    苦しい戦中戦後の7年間を成城で学び、多くの知己を得たことは、私の大きな宝となっています。
    特に、尋常科(現在の中学校)時代の国語教師、蓮田善明先生との出会いは印象的です。
    戦時中は学校の売店でもノートが不足していましたが、中には買い溜めする生徒がいました。そんな時、先生はその生徒だけを叱るのではなく、全員の前で「自分だけがよければいいのは間違いだ。他の人のことを考えなさい」と、懇々と諭されたことを今でも鮮明に覚えています。寡黙で優しい方でしたが、物事の判断は常に公平でした。
    戦中、戦後では濃淡がありますが、旧制高等学校では、リベラル・アーツ教育が基本であり、語学や歴史、哲学をよく学びました。なかでもドイツ語の星野慎一先生には、先生が亡くなるまで親しくさせていただきました。先生から教わったゲーテの詩文は今でも忘れ得ぬ思い出です。また、阿部六郎先生、岩崎武雄先生、藤田健治先生、尾鍋輝彦先生などなど、名教授の教えを受けたことは本当に幸せでした。
    また、学生同士、よく議論をたたかわせ、互いに切磋琢磨する中で、自己が確立されるとともに、互いに向上しようとする意識も自然に育まれていきました。実学教育は専ら旧制大学が荷っており、そこでは旧制高等学校で学んだリベラル・アーツ教育をベースに専門教育が施され、社会に役立つ幅広い人間が輩出されました。
    縁あって、理事長を務めさせていただきましたが、こうした幅広い自由闊達な人間づくりの基礎となるリベラル・アーツ教育の良さを成城学園の伝統として受け継ごうと尽力してきました。これからの成城学園に期待しています。

    皆でよく行ったハイデルの丘で。左から2人目が大坪さん皆でよく行ったハイデルの丘で。左から2人目が大坪さん
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